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研究者としての能力・技術の磨き方|経営学の質問箱:今さら聞けない経営学についてのあれこれ【第1回】

2023年10月28日から29日にかけて、関西大学千里山キャンパスにて「2024年度組織学会年次大会」が開催されました。
本記事は、10月28日の8時50分〜9時40分に行われたモーニング・ミーティング「経営学の質問箱:今さら聞けない経営学についてのあれこれ」について取り上げます。この企画は、大学院生やアーリーキャリアの研究者から寄せられた「今さら聞けない」質問について、ベテラン研究者をお招きして応答していただくというものです。
モーニング・ミーティングは、2つのテーマごとにセクションが設けられました。

応答セッション1「能力・技術系の質問」
応答セッション2「キャリア・研究環境系の質問」

この連載では、モーニング・ミーティングの様子を2回にわけて紹介していきます。これまであまり公にされてこなかった組織学会の様子を垣間見ていただければと思います。
第1回は、応答セッション1「能力・技術系の質問」より、2名の研究者に応答いただきました。

※ 登壇者の所属は、すべて2024年3月末時点のものです。

中園:
みなさん、おはようございます。
この会場は、「経営学の質問箱:今さら聞けない経営学についてのあれこれ」です。今回、初めて「モーニング・ミーティング」という枠を設けていただきました。初の試みであり、また朝早くであるにもかかわらず、このように多くのみなさんにお集まりいただき、驚くとともに恐縮しております。すべてに先立ち感謝を申し上げます。
このセッションは、明治学院大学の木川大輔先生、東京大学の舟津昌平先生、そして広島修道大学の中園宏幸が担当いたします。よろしくお願いを申し上げます。

まずは、企画の趣旨を簡単に説明いたします。
この企画では、研究活動にまつわる「今さら聞けない」質問を、事前に匿名にて募っており、会場にて応答する形式を取っております。
研究者としてのキャリアを継続していくにあたって、「聞きたいけど、聞けない」「誰に聞いたらよいのかわからない」といった悩みを抱えることは少なくありません。さらに、ここ数年の気軽に雑談がしにくいという状況が、悩みを増大させてきました。
そこで、研究者として葛藤しつつもなんとか人生を暮らしていくためにどうしたらよいものか、先行研究をレビューするように、先行する先生方のご意見やアドバイスを伺う機会があるとよいのではないかとなりました。それがこの企画の背景となります。 

中園:
今回は、投稿していただいた質問を「能力・技術系の質問」と「キャリア・研究環境系の質問」に大別しました。
「能力・技術系の質問」は、京都大学の山田仁一郎先生と神戸大学の服部泰宏先生に、「キャリア・研究環境系の質問」は、一橋大学の青島矢一先生と東京都立大学の高尾義明先生に、それぞれ応答していただくことになりました。
それでは早速に本題に入ってまいります。ここからは、舟津昌平先生にマイクをお渡しします。


舟津:
司会を任せられました東京大学の舟津と申します。よろしくお願いいたします。
朝早くからこんなに大勢の方に集まっていただけるとは思ってもいませんでした。我々としては軽い気持ちでやってみようと始めたセッションではあるのですが、こうして素晴らしい先生方にご協力いただき、コメンテーターをしていただけることになりまして、非常に恐縮しております。
では、時間が限られていますので、早速ですがセッションを始めたいと思います。

Q1 新しい研究手法の登場にどのように対応してきたか? 

舟津:
たとえば、定量分析や統計について、どんどん新しい技術が出てきています。それらをキャッチアップする必要があるのではないか。博士課程に在籍している間に次々に状況が変わっているということもあり得るかもしれません。新しい研究手法に対してどういうスタンスをとるべきでしょうか。
まずは服部先生からお話を伺えればと存じます。

服部:
神戸大学の服部と申します。よろしくお願いいたします。
私も偉そうに言える立場ではなので、あくまで1つのケースとしてお聞きいただけたらと思います。
私は、割と人に聞くことを恐れない人間で、「そんなことも知らないの?」と言われても気にしません。なので結構、直接聞きに行きます。たとえば、雇用関係について研究をしていた頃には、神戸大学の法学部の先生に頭を下げて、学部の授業を聴講させてもらったり、離散数学について勉強するときには理学部の先生にお願いしたり、といったことを普通にしていました。今でも時々そういうことがありまして、専門家に聞きに行くことをためらいません。
手法に関しても同様です。大学院生時代、初めて計量経済の手法を使ってみようと思いたったときには、その手法を使っておられた経済学の先生のゼミを見学させてもらいました。そのゼミの院生さんに、どういう分析をしているかを直接聞いたりして。その後、マルチレベル分析について学びはじめたときは、親しくしている詳しい先輩に聞きに行きました。その先輩がわからないことに関しては、文学部心理学科の先生にいきなりメールを送ったりもしました。
要は、自分が知りたいことについて詳しい人を見つけて、直接聞きに行くんです。私は本を読んだだけでは満足できない人間なので、直接教わりに行ってしまいますね。ただし、前提として、まずは自分で本などを読んで、ある程度“武装”してからいくべきかなと思います。1から全部を教えてくださいというのは少々厳しいので。
一般論になってしまいますが、まずは自分でインプットして、最終的にわからなかったところを人に教えてもらい、その本に書かれていることについて理解する、あるいは自分が正しく理解しているかを確認できるような環境を作ることです。

舟津:
ありがとうございます。山田先生、いかがですか?

山田:
京都大学の山田仁一郎と申します。よろしくお願いいたします。
すごく初々しい、良い質問だと思います。ただ、今、“武装”という言葉でおっしゃっていましたけど、研究手法や技術というのは、あくまで“道具”ですよね。それは今回のセッションのタイトルどおりです。たとえば、楽器のために音楽をやるわけではない、ということと同じですよね。
本来、その研究領域で、ある手法を使っている研究者本人に会いに行くのは、その研究者が、テーマをどういうふうに掘り下げていて、何に悩みつつ、何を楽しんでいるのか、そういったことに触れる機会であるわけです。そして、直接触れることによって「自分にも合うな」とか、「自分もやってみたいな」と研究の情熱や気持ちが上がる場合もあるし、「ちょっと違うな」と気づける場合もあると思うんです。
「技術の権力化」という深刻な問題があるのと同じように、「研究手法が権力化」するのは本末転倒だと、個人的には内省的に思っています。研究手法という「道具」はどんどん進化やアップデートがなされると思います。けれども、それは、ピアニストが前世紀にシンセサイザーの登場によって危機感を覚えたとしても、それでピアノが完全に淘汰されるわけでは全くなくて、楽曲によって必要となる道具としての出番が違ってきたり、そのうち協奏する曲も生まれたりして混ざっていって、音楽の中で共存するみたいな進化する状況が生まれてくるわけじゃないですか。そういう変化の過程に我々もいるだけであって、そんなにツールの新陳代謝に対して過剰なフォビア(恐怖症)にはならずに、「それはどんな感じで楽しいの?」「それでどんなことがわかってワクワクするの?」とポジティブな関心を持つことが本質だと思います。

舟津:
ありがとうございます。これが大学の授業ならもうクラスの半分くらい寝ている時間(※早朝9時頃)ですが(笑)、皆さん本当に真剣にお聞きになっていて、非常に驚くと同時に喜んでおります。素晴らしいお返事を頂きました。山田先生は音楽にたとえられましたけど、まさに音楽を奏でるようなお返事を頂きました。
さて、次の質問も、最初の質問と少し似ているかもしれません。

Q2 「研究手法をきちんと理解していないのでは」という不安をどうしたらよい? 

舟津:
先ほどと地続きの質問ですね。たとえば、統計の手法や数式など、数字を使うものに対する不安・苦手意識があったとして、自分の理解が浅いのではないか、わかっていないのではないかと心配なとき、どういう対処をされましたか?

服部:
先ほどとかなり近い質問ですね。だからこそ聞ける人を見つける、気軽に教えを乞う関係を築くことです。私の場合は、まさに最初の計量経済もそうだし、マルチレベル分析もそう、あとはQCA(質的比較分析)という手法を使ったときとか、自分の分析手法のバリエーションを1つ増やすときに、参照できる人や助けてくれる人が1人いることがとても大事ですね。
科学社会学にもそういう議論があるのですが、「マルチレベル分析が実際にできる」ためには、「マルチレベル分析を(知識として)知っていること」が大前提になります。しかし、「マルチレベル分析が実際にできる」ためには、「マルチレベル分析を(知識として)知っていること」以上の知識やノウハウが必要になる、ということです。それは書籍や論文からは容易には入手できないですし、自身の経験だけでは心許ない。ということで、そのギャップを埋めてくれるのが、信頼のおける他者なのだと私は思います。
その際に重要なのは、「あの人はそんなことも知らないのか」と思われることを、恐れないということです。研究者をしていると、どうしても、「賢いと思われたい」「物知りだと思われたい」と考えがちになるのですが、そこを変えることがまず大事かなと思います。もう1つ大事なのは、新しい手法の学習には時間がかかるということ、ましてや仕事や教育をしながら覚えるのはなかなか難しい、ということです。これはあくまで私のケースであり、良い例なのかどうかわかりませんが、実は私自身の業績リストを振り返って見てみると、大体5年に1回ほど、業績がピタッと止まる瞬間があるんです。そこで何をしてるかというと、このような勉強に充てている時期なんですね。
山田先生とは少し考え方が違うかもしれませんが、私は自分の分析の手法の幅を広げることが、自分の中のものの見方などを規定している自覚があります。たとえば、計量経済を学ぶとそれで全部切りたくなったりする。だからこそ、意識的に定性研究もインプットして、自分の思考の幅を狭めないようにしておきたい。そうするためにはどうしても、「業績がピタッと止まる瞬間」が必要になるのです。山田先生はいかがですか?

山田:
いや、良いお話ですね! 若いうちからペーパーや研究プロジェクトをいくつか並行して進める経験をして、「プロジェクトのポートフォリオと論文パイプラインがいくつかあるほうが大変だけれど良いと思いよ」という話をよく大学院でするんですけど、たしかに修士・博士を含めて、良い悪いではなく、そのときに主に使っている手法が移ろってきたなと、服部先生の話を聞きながら思いました。方法は確かに思考や分析を規定したり、広げたり縮めたりする面がいつもあります。
今度は料理にたとえましょうか。新制度派組織論のウッディ・パウエルさんが、その手の論文について説明するときにワインの例を挙げていたのを生で聞いたことがあります。「テイスティングのプロは、まず舌の説明から始めるんですよ」と。スタンフォード大学で実際にワインをボトルやグラスとともに並べて、ワインの味がわかる舌を開発するのにどれくらいの時間とステップがかかるかを説明しながら、論文の書き方について彼が講義していたことを思い出しました。要するに、さまざまな手法のフロントランナーや、一番詳しいエキスパートに至るまでにはそれなりに時間がかかるものなのであって、かけていく時間のなかで、その過程や手法に自分がどう親しむのか、味わいものにしていくのかが重要なんです。食べてみて「おいしい」と思ったから、その作り方やレシピ、手法を習いに行こうかなと思うわけですよね。習ってみてもっとやりたいと思ったら「Go for it!」、やったらいいですよね。でも時間はかかりますからね。
研究手法にはアップデートがどんどん早いものもある一方で、割と古典的なものもいくつもあります。そこで一番大事なのは、どんな料理を自分が食べたいか、作りたいか、どんなテーマに自分が取り組んでいきたいか、という「問い」です。あるいは、誰にその小品(手料理)を振る舞いたい(サーブしたい)という動機づけで研究を営むのか。
先ほどの話ととてもリンクしていますが、むしろ得意分野であればあるほど、エキスパートほど自分の理解の浅さに対してコンシャス(意識的)だったりするんですよね。Aというポイントは掘り下げているけど、それはBのポイントを掘り下げることをあえて諦めているからなんだ、というようなことにすごく自覚的だったりするので。こういうビギナーズマインド(初心)を持つことは、とても健全なので、頭でっかちにならずに、どんなステップでもずっと持ち続けていて当然だと思います。どれだけ熟達しても、この点はおそらく変わらないんじゃないですかね。もちろん、未熟な者として想像するだけだけれども。

服部:
私もまったくそのとおりだと思います。あとは研究成果をどこで出していくか。これも研究者によってだいぶ考え方は違うと思うんですけど、誤解を恐れずに言うと、私は学内の紀要や公開式のワーキングペーパーを新しい手法を試す場にしてるんですよ。『組織科学』でいきなり新しい手法で切り込んでいくと、けんもほろろということもあり得るので。海外ジャーナルも然りですね。
こういう位置付けが正しいかどうかよくわかりませんし、もちろん反対意見もあるかと思うのですが、新しい手法を学んである程度一生懸命にやったら、私はまず学内の紀要なりワーキングペーパーなりに出してみて、いろいろな批判やアドバイスをもらうようにしています。そんな形で公表する先を選ぶ戦法も、ポートフォリオ、オプションとしてあるかな、と思います。

舟津:
このコメンテーターの先生方が素晴らしいのは、次を読んでいらっしゃるというか……実はこれ、全部つながっているんです。次の質問は、今の話と無関係ではなくて、なぜそんなに定量・統計にこだわるかというと、いわゆるトップジャーナルに掲載される論文というのは定量的な研究がすごく多くて、それをキャッチアップしないとトップジャーナルには載せてもらえないんじゃないか、どうやったら通せるかという質問ですね。

木川:
補足すると、本日の回答者の先生方は、国内外のジャーナルで多数業績がある方々です。

Q3 海外のトップジャーナルに掲載されるにはどうすればよいか? 

山田:
これもアカデミックキャピタリズム(学術資本主義)の生態系の中で、自分は一体どこに住みたいか(生き残りたいか)、どうポジショニングを取りたいかによって変わってくると思っています。
たとえば「こういう職場がいい、だからこういう実績を作っておきたい」とか、あるいは「このテーマでこの研究しようと思ったら、このジャーナルでないと満足がいかない」とか、そういう場合は挑戦し続ければいい。アスリートのように戦い続けることを楽しむのが健全な態度なんだろうなって思いますし、それについては拍手しかないわけですよ。
一方で、「マディソン・スクエア・ガーデンや日本武道館で音楽をやらないと、もう私はミュージシャンじゃない!」なんてことを言っている人がいたら、「すごいなあ」というか、半ば「好きにすれば?」となります。だって、街中のライブハウスで音楽をやっているミュージシャンも、「音楽」というエコシステム全体にとっては大事な存在じゃないですか。両方が大切で、ちゃんとつながっているんであって、片方だけを見ていても全体像を楽しめないでしょう。
もちろん、ハウスジャーナル(紀要)は、評価が劣後するという理解を持つことも大切です。ただ、評価は当然劣後してしまったとしても、掲載までのスピードや確度が比較的容易で、学部生や万人がリーチしやすい(手に入りやすい)ハウスジャーナルの存在が続いていることの意味の社会的、学術的な重要性についても、我々は考えながら活動するのがよいのではないでしょうか。コミケ(同人誌市場)と商業的な週刊漫画の補完関係といえばいいかな。さまざまなジャーナル(学術雑誌)がある多様性の中で、この研究についてはここに出したら素敵だなとか、楽しいなとか、ダメならここでやりましょう、というようにぐるぐる回していくのが、我々の、つまるところ“商い”なんじゃないですかね。あまり僕自身は、テーマやキャリア志向性にもよるのだけれども海外にだけ固執しなくていいと思っています。

服部:
私もそう思います。もちろんそれぞれの先生方にとって、目指すものは異なるでしょう。私の場合は自身の能力の問題もあって(笑)、英文ジャーナルを狙う場合、いわゆるトップジャーナルを端から狙うというよりは、自分が読んで面白かったジャーナルの「ここに自分の名前を連ねてみたい」という基準で選んでいます。ランクやインパクトにはあまりこだわっていない人間なので、そういう意味では、この質問者の先生に対する回答をする資格はないのかなと思います。むしろ、今日会場にいらっしゃっていて、これから海外ジャーナルや『組織科学』にチャレンジされる方々に今のコメントを届けるのが、私の役割かなと思っています。

山田:
同感ですね。そういう意味であえて言うと、私は、国内の辺境の大学で学んで博士学取得後、講師になってから、レスポンスレターなども含めて、割といろいろ人から直接/間接に、長い時間をかけて少しずつ教えてもらってきました。当時は、国内の大学院でも学会でも、そんなノウハウ的なプログラムはほぼ皆無に近かった時代です。私のアドバイザーの先生方は、どちらかというと国内、あるいは書籍で勝負されていたので、海外で戦うノウハウを一子相伝で受けたという記憶もあまりなくて、「やりたければ、自分でこじ開ければ(やりたければ)」と言われていたと感じています。
なので、海外で活躍している日本人の研究者の方々や、国際学会のワークショップでエディターへのレターの書き方を教えてもらったり、友達ベースで身近な人にアクセスしていって、「こうやって返すんだ」とか学んだり。今となってはずいぶん類似してきましたが「『組織科学』にはこう返しているけど、この国際雑誌だとちょっとスタイルが違うな」といったことを少しずつ覚えていきました。
あとたとえば、細かなことですが言語が違うので、論文の構造分析ですね。“First purpose of this paper is to~” について、このジャーナルのこの論文だとどこに書いてあるのか――大体イントロダクションの最後のほうに書いてあることが多いんですけど、そうじゃないケースもあって。「このバリエーションもありか」とか、「いきなり(冒頭で)言っているスタイルの人もいるのか」とか。
四半世紀前近くの古い話をすると、一番はじめにサバティカルでイギリスに行った際、「お前は授業があんまり(英語でうまく)できないから」と、5本くらいの論文の査読レビュアーとしての仕事を毎月いただいたことを覚えています。毎日毎日ひたすらやらせていただく機会を与えられたんですよ。もしかしたら、遅ればせながら私はそこで論文の作法を学んだところもあったかもしれません。センテンスレベルで論文を分析して、何をどこに書けばよいのかを学ぶ、ということ……いまも決して自信があるわけではないけれども。
ただ、何とかやりくりしようとしているだけです。もっとも、かなり様式化が進んだ現在の『組織科学』の中では、ゲームエントリーするとすぐに“こういう感じ”というのがわかるのかもしれませんし、時代は変わってきましたが。

舟津:
後ほど『組織科学』が世界のトップジャーナルになるために、という話をしたいですね。
(会場笑)
続いて、他者へのコメントについてどうしましょうか、という質問です。

Q4:他者の研究へどのようにコメントすればよいでしょうか?

舟津:
こういう質問をされる時点で、この方は良いコメントできる方なんだろうなと感じるわけですが。

服部:
コメントは難しいですよね。私は、良い点と欠点のどちらにフォーカスするか、どのくらい厳しく言うかといったこと、それらを総称して「モード」と呼んでいるのですが、このモードを場面によって分けるようにしています。1つは査読の時のコメントや、これから博士論文を出していろいろな問題を潰していかなければいけないようなゼミ生などに対するコメント、もう1つは学会発表の場でするコメント。この2つは、かなり意識的に分けています。
私は、コメントには複数の機能があると考えています。1つは、その人の研究をより良くする・良いところを伸ばすための「こうしたら良くなるよ」というタイプのコメント、もう1つは、逆に良くないところを潰していくコメントです。査読は後者が結構大事ですよね、そのジャーナルのゲートキーパー的役割を果たしているので。査読の場合、私の感覚的には、良いところを伸ばすコメントと良くないところを潰すコメントの割合は50:50でしていますかね。
学会発表では、方法が間違っているなどの問題は後でフォローすればいいと個人的には思っているので、どちらかというと、そのコメントを聞いて「じゃあ今日早速これをやってみよう」とか、「今日この本を読んでみよう」、「この分析をちょっと試してみよう」、「こういうチェックをしてみよう」という、発表者の行動につながるようなコメントをします。私はアクショナブルという言葉が好きなんですけど、どちらかというと良いところを伸ばすコメントにウエイトを置くようにしています。

山田:
結局、研究(としての「書き物」の上での)の状態とフェーズ、コンテクストによって相当違いますよね。

服部:
端的に言うとそういうことです。

山田:
院生に対するコメントでは当然ですけど、アクショナブル(実行可能)なToDoリストだけではなくて、ロングターム(長い視野)で「結局あなたは何を主題や問いとして追求したいの?」というと点を尋ね、お伝えすることが彼らより上の世代の研究者の務めです。学会発表の場はジャーナルへの投稿の前段階になっている面もあるので、クリアしなければならない点などのTipsや、要件についての指摘も最小限は必要です。ただ、第三者的な視点から見ると、発表者が研究の進め方について迷っている部分に気づくことって多いですよね。自分がその人の立場だったらどっちを選ぶのかなということを「たとえばの仮説」として示し、それであなたはどっちだろう? と尋ねてみることが、私の場合はすごく多いです。

舟津:
ありがとうございます。
先ほど服部先生は、誰かに教わろうとおっしゃっていましたけれども、そういう意味で、文章の書き方、論文のライティングのお手本となるものがあれば教えていただきたいというのが次の質問です。

Q5:アカデミックな文章の書き方はどのように身につけるか? 

服部:
“これ”といった普遍的なおすすめはなくて、「この人のこの部分すごいな」と思える文章のお手本を自分なりに見つけることでしょうか。私、実は文章で言うと、恐れ多くも大リスペクトしているのは伊丹敬之先生なんですね。伊丹先生の文章は――皆さんにも嚙みしめるように読んでいただきたいんですけど――本当に上手で、真似できないんですよ。無駄な言葉が一切なくて、奇をてらった表現でもない。自分の中ではああいう文章を書きたくて。すぐに同じように書けるようになるとは思っていませんが、1つの理想としています。
ということで、私には「モデル」はあるようでなくて、だからこそ山田先生にお聞きしたいです。
技術的な面でいうと、自分の文章に関しては音読しています。恥ずかしいんですけど。音読すると、たとえば「『そして』の前の読点がなんかおかしい」など細かい部分にも気づけます。社会学者の清水幾太郎先生のおっしゃっていたことで、「自分の文章を客体化する」という言葉がありますが、そのとおりだよなと思っています。音読は、私の中で自分の書いた文章を客体化する1つの方法です。
紙に打ち出すのもそうですね。私の場合、デジタルだとあまり客観視できないので、紙に出して音読して、文字どおり赤ペンであれこれ修正していきます。あとは、自分の書いたものを、あえてしばらく読まないようにしておき、少し忘却した頃に再度読み返す、というのもとても良いです。とにかくそのようにして、自身の書いた文章と距離を取ることが大事だと思います。端的な答えになっていませんが、よくする工夫・方法をご紹介しました。

山田:
偶然ですね。僕も、いま真っ先に思い出したのは、伊丹敬之先生がお若く文章修行されていた時分に、司馬遼太郎を全部読んだというエピソードです。何が言いたいかというと、加護野忠男先生からも似たような話を直接伺ったことがあって、経営学者だからといって、経営学者のエクリチュール(文体)を学習しなければならない、というのは大きな誤解じゃないかなという気がしますね。
自分が書いた言葉について、音読をフィジカルに行うのがチェックとしてよい、というのはまさにそのとおりです。来週、国際学会の基調講演で英語で発表するんですけど、僕はさすがに英語で大勢に講演するともなると、内容によっては原稿をコンピューターで読ませながら、それと一緒に自分も声をだして読み合わせしたりしています。これは半分冗談みたいですけど、本当にやっています。書いたもの、エクリチュールは、書いた作者に支配されたものではない、と思うくらいが、よりよくするために、そして書き続けるために、やはりいいんじゃないでしょうか。 

 

舟津:
ありがとうございます。次が前半の最後になるんですが、インタビューはどうしますかという質問ですね。むしろ今までのやりとりを聞いていただくのが、ある意味でインタビューのお手本になっていて一番良かった気がします。「こういう風にやっているんだよ」とやってみせるのが参考になりますよね。

Q6:インタビュー手法はどうやって習得すればよい? 

服部:
2つポイントがあると思っています。
まず、駆け出しの頃は、経験者に同行して現場で覚えること。私自身、インタビューが好きで結構やっているんですが、インタビューガイドラインをどのように・どこまで作り込んでいるのか、当日それをどう使っているかは、人によって千差万別です。是非とも、他の人がインタビューする様子を見る機会を作っていただきたいと思います。本当に勉強になりますよ。ガイドラインの順番を守ろうとしてコントロールする人と、あくまで備忘録として使っていて、順番どおりに進まなくても、最終的に全部の項目にチェックがつくようにしている人と、さまざまです。ちなみに私は後者なんですけど、人によってかなりのバリエーションがあるので、いろいろ見て、自分の肌に一番合うものを身につけてていった感覚です。
もう1つは、本筋に戻すための一言。これ、私の中ですごく大事だと思っているものです。「今日絶対に聞きたいことはこれだ」という目的がある時に、脇道にそれたら戻す“キラーフレーズ”を持っていることが肝心です。単に戻すだけではなく、僕が確信的に脱線し始めたり、あるいは気づかずに脱線したりした時に、「いや、その話めっちゃ面白いんですけど、ちょっと今日は時間の問題があって、全然違う質問をしてもいいですか?」というように、上手に軌道修正する一言を持っておくことです。

山田:
確かにインタビュー手法としての「聞き取り方、お話の切り出し方のテンプレート」はたくさんあるんですけど、こういう場ではあえて経験的な話をしたほうがいいかな思うので、そういうお話をしますね。
私の場合は最初から随伴ではなかったんですね。駆け出しの修士課程の頃にインタビューする機会を2回もらえて、一番はじめのインタビューは、コーポレート・ベンチャーを研究テーマにしていたときです。「リクルートの社長にアポを取ったから1人で行ってこい」と言われて(笑)。今指導教員を大学院でしている立場から想像して思い返すと、なかなか……とてもありがたく、すさまじいチャンスですよね。それで……我ながら最悪のインタビューでした。そんな風に、ご迷惑をおかけしながら経験から反省したりを繰り返して磨いていきました。
もう1つは、同じ頃、シンクタンクからインタビューのアルバイトで、ある地域と業種についてかなりまとまった数の経営者とお話をする機会をいただいたんですね。大量のインタビューの録音データの起稿もですけれども。そのとき起稿マシンのようになった経験から気づいたのは、プロのコンサルタントと学術的なインタビュアーとは、ペルソナ(話者としての主体)というか、アイデアの視座の単位というか、そこが違うということです。半構造化などの手順のマニュアルの有無も含めて、話し方や声(ヴォイス)も違うという気がしますよね。

舟津:
ありがとうございます。そろそろお時間が来たので、今日1日費やせるテーマでもあるんですけど、ここで山田先生、服部先生のご登壇は終了となります。
本当に、ありがとうございました。


「経営学の質問箱」セッションに寄せて:"Do not block the way of inquiry"(問いの道を阻まず)

学問について問う立場から問われる立場にいつからなったのか。覚えていない。いや、正直にいうと、なった覚えがない。
「今さら聞けない経営学の質問箱」というセッションはどのような内容なのか? そう思いながら、何も準備せずに会場へ足を運んだことを覚えている。
「問うことと、問われること」についての場に招聘されることの意味、機微についてしばし考える。
開催直前に届いた「若手研究者」のご質問に対するスタンスとしては、服部先生に真正面からお答えいただく事として、僕は側面から三味線を弾くような、こぼれ話を喋るという事にした。
よって今回のセッションに関しては、とくに準備はしていなかった(僕への依頼が直前だったことを言い訳としている)。しかし、準備をしなかったが故に、その分、自然体でお話させていただく事ができた。
思えば大学・学部時代、僕は第一志望ともいえぬままで学科へ偶然に入学した。しかし、そのお陰で、さまざまな分野の先達から学問のあり方を問い教わる機会に恵まれたかもしれない。なかでも忘れがたいのが、学生になったばかりの頃、文化人類学者・(故)山口昌男先生に「学問の作法」を質問した際、「君の”尋ね方”は固定観念にとらわれ過ぎている」と叱られたことだ。この経験は、学問を通して人や組織と向き合う上での態度や距離感をずいぶんと考え直すきっかけとなった。ボタンを正面から押せば、なにか知りたいことが出てくるわけじゃないんだ、と。
ところで、「質問箱」に対して、『組織科学』の特集号ではないが「学問の道具箱」とはどこにあるのだろうか。高校生の頃から、『ニセ学生マニュアル』という書籍を読んでいたためか、色々な大学や分野の講義に潜って尋ねてきた。当時、多士済々でフレンドリーな先生方は、学問の魅力がその生身の身体に滲んでいたから、「学者は面白い生き物だ」と感じることができた。そうした先人たちの息吹や香りを、今も自分は忘れずにいると思う。当時の碩学達は、高校生や大学時代の「学生」にすらなんら別け隔てなく、学問への情熱を贈与していた。そうした情熱は、様々なる学問の道具箱への接し方の潤滑油やエートスの伝播(感染)みたいなものになっているのかもしれないと、セッションを振り返っていま、思ったこと。
これからも学問の道具や用い方、身につけ方を巡って、「質問することに躊躇する問い」、「質問しづらい問い」があるかもしれない。しかし、その躊躇やためらいの中に、すばしっこくてエルージブ(うまく逃げてしまう)な研究の尻尾があるのかもしれないと思う。
単品の研究アイデアや論文のプロットが飛び交うだけではなく、こんな対話ができる場のある組織学会は、やっぱり豊かな厚み、雑味があっていいなと思うことができた(1967年に「学際的に社会科学の総合理論雑誌」をかつて標榜した伝統のある学会)。道具箱を巡ってのやりとりの記憶が、研究の孤独なフェーズを走り抜ける燃料になればと願う。学会開催地が慣れない土地や街の大会に参加する時の、まるで旅に出たかのような胸の高まりや、今までに投稿したことのない雑誌へ、新しい論文を投稿する時の不安だけれど、賭けてみようとするワクワクした気持ちにつながればいいのだとも思う。そんな素敵な空気の対話の場をつくってくださった会場の方々や質問者の皆さま、企画者の先生方、編集者の方々に感謝。
問うても答えの出ない問いばかりが残っている。でも明日になれば、きっとまたさらに新たな問いを見つけては、投げかけるだろう。

"Do not block the way of inquiry"(問いの道を阻まず)。

山田 仁一郎


「経営学の質問箱」セッションに寄せて:研究を支えるローカルなナレッジ

「科学知識の社会学」の泰斗、ハーパー・コリンズは、学術研究の文脈で私たちがしばしば口にする、「私はそれを知っている」には、以下のようないくつかのレベルがあるという。

(1) ビアマット的知識(beer-mat knowledge)のレベル
ビアマット(コースター)に書くことができてしまうような、カジュアルな説明的知識だけを持っているレベル。たとえば、「競争環境の“おいしさ”は、5つの観点から評価できる」とか、「事前に抱く期待と直面した現実の差分により起こる心理的衝撃をリアリティショックという」といった、カジュアルな命題を知っているレベルであり、これを知っているだけでは、「専門家」とは到底言い難い。

(2) 通俗的な知(popular understanding)のレベル
メディアや一般書籍から、オリジナルのアイディアのエッセンスだけを抜き出し、理解しており、細部についてはわかっていないレベル。たとえば、「リアリティ・ショック」について誰かが書いた解説を読むことで得られるレベルの知識。(1)よりは深い理解を有しているが、まだまだ「専門家」とは言い難い。

(3) 一次資料からの知識(primary source knowledge)のレベル
そのアイディアのオリジナルの文献を読むことで、細部も含めて理解しているレベル。ただし、その領域において自らが新しい知を生産することはできないレベル。たとえば、リアリティ・ショックという概念の提唱者であるJohn Wanousのオリジナルを読んだ段階。ここまでくると、(その道の専門家から見れば「まだまだ」なのだが)一般の人の前では、「専門家」のように振る舞えてしまう。

(4) 対話型専門知(interactional expertise)のレベル
その領域で自ら新しい知識を生み出すことで学術的な世界に直接的に貢献することはできないが、その領域のことを、知識として広く、しかもある程度深く、理解している。たとえば、リアリティ・ショックついて、オリジナルのWanousだけでなく、その後の実証研究やメタ分析の結果をもレビュー済みである、など。典型的には、修士課程の学生が自身の専門領域について持っている知識がこのレベル。

(5) 貢献型専門知(contributory expertise)のレベル
(4)までの知識を踏まえつつ、自らも新たな知識を生み出すことができるレベル。このレベルの専門家は、その領域の形式的な知識はもちろん、論文を生み出し、ことを為すことに関わる、身体知/暗黙知をも有している。たとえば、「ロジスティック回帰モデルとはどういうものか」を知っているだけでなく、統計ソフトを使って実際にロジスティック回帰分析を行い、統計ソフトのエラーにも対処できる。

……(1)〜(4)が大教室のレクチャで提供されるのに対して、(5)は主として、所属する研究室やスクールの濃密な人間関係の中で、あるいは研究者個人の経験学習の結果として、つまりクローズドなところでひっそりと形成され伝授されてきた、ローカル・ナレッジだ。「経営学の質問箱」は、コリンズのいう「貢献型専門知」に含まれる実に豊かなナレッジに焦点を当て、従来は門外不出的だったそれらを、議論の表舞台に引っ張り出す試みであった、といえそうだ。

セッション当日は、分析の手法だとか、論文執筆だといったテクニカルな部分に焦点が当たっていたので、ここではもっともっとベーシックなところについて、語ってみたい。端的に言えば、「そもそも研究活動をやりくりするためのローカル・ナレッジ」だ。あくまでローカルなナレッジであり、どこまでみなさんの役にたつかわからないが、何かの参考になれば幸いである。紙幅の都合もあるので、2点に絞りたい。

1つ目は、自分の知的なスウィート・スポットを見つける、ということだ。高校時代、テニスのコーチから、「ラケットの面は、物理的にいえば、すべての点が異なった意味を持っている。したがってボールをヒットする点は、その局面における最適な点を使わなければならない」ことを教わった。いわゆるスウィート・スポットの話なのだが、厄介なのは、このスウィート・スポットが、当人のスウィングスピードやフォームなどの諸条件によって、微妙に変わってくるということだ。何度も何度もボールを打ち続けることで、身体感覚として、その「点」を探し当てたことを今でも覚えている(残念ながら、今ではすっかり見失ってしまった)。

同じようなことが、研究のような知的活動にも言えるように思う。端的に言えば、「自分の頭が最も活性化し、最もクリエーティブになるポイント」を探り当てる、ということだ。「今日は全然集中できなかった」とか、反対に「今日はかなり集中できた」といった感想を持って1日を終えることが、皆さんにもあるだろう。そんな時、自分がどのような環境下で、どのように研究活動をしたか、ということを振り返っていただきたい。毎日5分ほどの内省を積み重ねていくだけで、自分にとってのスウィート・スポットが見えてくるはずである。そしてこれを、キャリアのできるだけ早い段階(具体的には、学務や学会業務などで忙しくなってしまう前に)、見つけてほしい。参考までに、私の知的スウィート・スポットを左側に、それをどのように作り出しているかという実践例を右側に、紹介しておく。 

2つ目は、自分の知的活動のモジュールを理解する、ということだ。研究活動というのは、下記の表のようなさまざまなモジュールから成り立っている。そして、厄介なことに、それぞれのモジュールごとに、必要な時間が全く異なる。そこでお勧めしたいのは、(1)自分の研究活動のモジュールと、(2)それぞれに要するおおよその時間を把握し(1つの論文を書いたり読んだりするのに、どのくらいの時間を要しているかということをしばらく記録しておけば、おおよその時間がわかってくる)、(3)日常における自分の空き時間を把握した上で、それらをどう組み合わせれば良いか、というやり方だ。

たとえば私の場合、自分の研究に深く関わる英語論文について理解を深めるために、2時間くらいの時間を必要とする。マルチタスクをこなしながらこの時間を工面するには、たとえば担当する講義の曜日や時間をかなり慎重に選択するとか、種々のスケジュール調整をする際に、1週間のどこかしらに2時間くらいの時間の塊を確保するように心がける、といった意識的な調整が必要になる。それでも難しければ、土曜日の午前中だけは研究に使うようにするとか、東京⇄神戸の往復の2時間30分をレビューに費やす、といったことを考える。

対して、面白そうな論文をざっと流し読みして、おおよそどんなことが書いてあるかを把握する程度であれば、10分でできる。アブストラクトと「Purpose of this paper is to...」と書かれている部分、主要な仮説と統計分析の結果が書かれた表をみれば、それなりのことがわかる。あとは時間のある時に、その内容をEvernoteに簡単に書き込んでおけば、とりあえず簡易なレビューは完了だ。これならば、ちょっとした電車移動中でも、講義や会議の合間の時間でも十分にできるし、それで面白いと思ったら、その論文を「careful reading required(要精読)フォルダ」に放り込んでおき、2時間の空きがある時に丁寧に読めばいい。

重要なのは、自分の研究活動のモジュールとそれに必要なロットを理解しておくこと、そしてそのロットと自分の空き時間とをうまく適合させることだ。1章読むのに2、3時間かかる哲学書を、通勤時間の15分でなんとかしようとするのは馬鹿げているし、30分あれば十分に可能な新書の読書を、せっかくの大型連休中に行うのは、なんとなく勿体な無い気がする(もちろん、連休中の時間の隙間を新書の読書で埋める、といったことはアリだと思う)。

……随分と長くなってしまった。ここまで書いてきて、いまさらながらに思うのだが、自分のローカル・ナレッジを披露するというのは、なんとも小っ恥ずかしいことだ。この種のナレッジは、本来、(個々の研究者の頭の中や、少なくとも研究室のような)ローカルな場に保存されているものだし、そうあるべきものなのかもしれない。にもかかわらずこうやって面の皮厚く披露することにしたのは、私自身がこれまで、「〇〇の理論を知っている」とか「△△分析ができる」といった対話型専門知以上に、こうしたナレッジに支えられたことを実感しているからだ。本来であれば永遠に門外不出となるはずだったローカル・ナレッジを、こうして語る場を提供してくださった中園先生、木川先生、舟津先生に、心から感謝である。

服部 泰宏


第2回に続く〉

[登壇者]

山田 仁一郎(やまだ・じんいちろう)

2000年北海道大学大学院経済学研究科博士課程修了。博士(経営学)。2021年10月より京都大学経営管理大学院教授。
専攻:経営学、アントレプレナーシップ論、組織論
researchmap:https://researchmap.jp/J.Yamada

服部 泰宏(はっとり・やすひろ)

2009年神戸大学大学院経営学研究科博士後期課程修了。博士(経営学)。2023年より神戸大学大学院経営学研究科教授。
専攻:人的資源管理、組織行動論
researchmap:https://researchmap.jp/read0144626

[運営]

中園 宏幸(なかぞの・ひろゆき)

2015年同志社大学大学院商学研究科博士後期課程修了。博士(商学)。同志社大学助教、広島修道大学助教を経て、2019年より広島修道大学商学部准教授。
専攻:イノベーション・マネジメント
researchmap:https://researchmap.jp/hnakazono

木川 大輔(きかわ・だいすけ)

2017年首都大学東京(現東京都立大学)大学院社会科学研究科博士後期課程修了。博士(経営学)。東洋学園大学専任講師、同准教授を経て、2023年より明治学院大学経済学部国際経営学科准教授。
専攻:経営戦略論、イノベーション・マネジメント
researchmap:https://researchmap.jp/dicek-kik

舟津 昌平(ふなつ・しょうへい)

2019年京都大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。博士(経済学)。京都産業大学経営学部助教、同大学准教授を経て、2023年10月より東京大学大学院経済学研究科講師。
専攻:経営組織論、イノベーション・マネジメント
researchmap:https://researchmap.jp/sfunatsu


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