守之節―税理士のワビ、サビ、洒落、そして作法
人間の感性から税をみつめてみたい
税法にはお金を取られる仕組みが書いており、しかも、その内容が難解であるとすれば、「そんなものはこの世にないほうがいい」ことになる。しかし、今日の税法は私たちの祖先が血を流しながら闘い取ったものだという事実を知れば、頭から毛嫌いするわけにはいかない。
もともと税は、力の弱い「支配される者」が、力の強い「支配する者」に、犠牲的に貢物を納めたことからはじまるが、これに味をしめた支配者は次に貢物を差し出すよう強制した。貨幣経済が発達してくる近世に入ると、領主は自らの贅沢や領地争いに財を使い果たし、それを補うために新しい税金を次々考え出した。入市税、営業免許税、鉱山特権税などである。
封建末期には、貴族や僧侶には特権的な免税が認められていたが、人民にそのようなものはなく、税負担はますます重くなっていった。当時課されていた不公平な人頭税や重い塩税などに対する不満がフランス革命の引き金になったとも言われている。支配者(統治者)の恣意的な課税を許さず、国民の代表である議会の承認なしに課税はできないという大原則は、フランスのみならず、イギリス、アメリカでも人民の尊い血を流して確立されたものである。『マグナ・カルタ』(1215年)、『権利請願』(1628年)、『権利章典』(1689年、「代表なくして課税なし」)、アメリカ独立戦争(1775年~1783年)などといった教科書に出てくるような知識は、税の不公平をめぐる支配者と被支配者たちの闘いそのものであったかもしれない。
近代法治主義のもとでは、権力の分立を前提とし、公権力の行使は法律の根拠に基づいてこれを認め、それによって国民の自由と財産の保護を保障するというのが大原則である。したがって、国民の富の一部を国家の手に移す租税の賦課、徴収は、法律の根拠なくしてなし得ない。このルールを租税法律主義という。
実際に、日本国憲法第84条は、「あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする」と規定し、同法第30条では、「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ」と規定している。
役所は租税法を解釈し、そして執行するが、少しでも税収を増やす方向で執行しようと、役所の論理がはたらく余地がある。租税法の解釈は役所にだけ認められた特権ではないが、やはり国家の力は大きい。
そこで、役所の解釈がおかしい場合に、「自由に」、すなわち自らの信ずるところによって租税法を解釈し、その租税法律主義に基づき納税者を守る専門家が必要である。その存在こそが自由職業人たる税理士だ。
自由というのは、何をやってもいいということではなく、自分の信ずるところによって生きることができるということだ。「ノー」を「ノー」と言えるのが自由、そして自由職業人であり、自分の良心に従って行動ができるのである。
だからこそ、相手が役所であれなんであろうと臆することなく立ち向かうことができる。税務調査なんかは1つも怖くない。悪いことをやっていないのなら堂々として、解釈の違いはとことん突き詰めるべきである。
このように税理士は自らの仕事に誇りを持つべきであるとは思うが、勘違いしてはいけない。別に納税者は税理士の資格自体に尊敬の念を持ってくれるわけではないのだ。「ご商売は?」と聞かれて「税理士をやっています」と答えると、たいていは「いいご商売ですね」「堅実なご商売ですね」などと返してくる。これは別に尊敬しているからそう言っているわけではなくて、堅く儲けてるな、という意味でしかない。
テレビドラマや映画に登場する税理士をみれば、世間がその職業に対して抱いているイメージがよくわかる。たいていは悪いほうについているブレーン役か、よぼよぼのおじいさんなのだ。
それでは、納税者、国民全体から信頼されるような税理士になるためには、どうすべきか。当然、役所の代弁者=行政のお手伝いのようになってはダメである。だからといって、今度はクライアントの代弁者となって、税を1円でも安くしようと考えるようなことも適当ではない。さらに、会計事務所の所長として顧問料や報酬の関係から税制がどうあるべきかなどと考えるのも本末転倒である。
自由職業人たる税理士は、ほとんどクライアントにもならないようなサラリーマンまで含めた国民全体の声を代弁しなければならないのだ。
そんな「自由職業人」としての税理士であり続けたいという思いが強すぎるせいか、はたまた少し洒落っぽく生きたいと思っているだけなのか、私は税理士のバッチを付けたことがない。
その代わりといってはなんだが、私のトレードマークでもあるフクロウのバッチは数多く所有している。また、愉快にやろうというときはミッキーマウス、短気を起こさず気長に…という場合にはモジリアーニという画家が書いた人の顔、みんなとハーモニーを大事に…というときにはホルンのバッチを付けている。その時々の気持ちを表現するための1つの手段として、こうしたバッチを付けて遊んでいるのだ。
こういう生きざまというか洒落が許されるのも税理士だからだと思う。洒落のための自由がある。しかし、この自由が当たり前ではない世の中もあった。
私が小学校、中学校の時は皇国史観で歴史を学んだ。終戦後、皇国史観で歴史を教えた学校の先生は教職追放(民主化のため不適格な教職者をその職から排除した)されることになった。確か中学1年の時だったと思う。私は当時からへそ曲がりで、やらなきゃいいのに、先生を守ろうと追放の反対(署名)運動をやった。しかし、占領軍の憲兵につかまって、取調べを受けることになった。
まだ中学1年の子供である。それにもかかわらず、占領目的に反するとか何とかといってしっかり尋問されてしまったのだ。私はどうなってしまうのか不安で仕方がなかった。しかし、向こうはピストルをくるくるっとまわして遊びながらそれをつきつけてきた。あまりに怖くて小便をもらしてしまった。今から考えれば占領軍に引っ張られるのは大変なことだった。それでも先生を守ろうとしたが、そのような自由は許されていなかった。先生もあえなく追放されてしまった。
そんなことが影響したのかどうか、私は高校に入ると弁論部に入り、仲間と切磋琢磨し、討議の技術を磨いた。その頃の弁論大会で発表した題目としては「何が民主主義を成立させるか」「基本権の限界」「新憲法と農村青年の使命」「信念の再認識」といったものが並ぶ。今からすると、非常に政治的、思想的な感じがするが、当時はそういう時代で、私の作文には教師から「思想内容がやや淋しい」と赤入れされていた。
同じく高校の時であったと思うが、ストライキを行う教師を弾劾するような活動も行った。言いたいことをしっかり主張する。間違っていることを間違っていると言う。当たり前のように聞こえて当たり前ではない時代があった。そうした経験が、私の税理士としての、いや人間としての感性をかたち作り、私の生きざまとなったように思う。
そこで、まず本書の第1部では、そうした自由職業人という考え方に至った半生を振り返り、税理士であれば当然のこととして大切にしなければならない自由職業人の条件を考えてみたい。自分の話を他人に披露するのは気が引けるが、老人のたわごととして、読んでほしい。戦後に育った若い税理士、また税理士を目指す読者の皆さんが、戦後税制というものがどのような社会背景を前提に作られていったのか、その一片でも垣間見ることができたならうれしく思う。
また、私は税理士になって以来、事務所の運営はもちろんのこと、受験指導や研究活動(海外視察も含む)、論文や書籍の執筆など幅広い活動を行ってきたつもりである。と、少し格好のよいことを言ってみたが、現実には目の前の仕事に対してただがむしゃらにそしてひたむきに向き合い続けてきただけである。振り返ってみれば、「塵も積もれば山となる」ではないが、1つひとつのそれらの活動とそこで出会った人たちこそが、私にとって大きな財産となっていた。第2部では、こうした活動について関係の深い人たちとともに回顧した。
私は『人間の感性から税をみつめる』ということを大切にして税務に携わってきた。先述のように、それは役所の論理でもクライアントの論理でもない、普通の人の心というものを大切にしたアプローチである。そんな姿勢で頑固に臨んできたために、苦労も多かった。第3部はそのような私がお上に逆らい続けた自由職業人の日誌のようなものである。ここで取り上げられた法律、通達や裁判例の問題から、税理士として大切にしてほしい原則的な考え方、すなわち机上にとどまらない血が通った租税法律主義のあり方について理解を深めてほしい。
令和2年11月 妻・美枝子に
山本守之
編集担当者より
この本の企画案に掲げられた当初のタイトルは『民主主義のために―職業としての税理士』でした。民主主義と聞くと、安全保障だったり、憲法9条だったり、政治家とカネの問題だったり、色眼鏡でみてしまうことが多いけれども、本来は日々の生活の中に遍在しているものであるはずです。
実際に、本書の著者・山本守之先生のお話を聞いたり、著書を読んでいると、税務申告や税務調査における税理士の役割は民主主義の請負人そのものなのではないかといった気さえしてくるのです。税制は民主的に作られるものですし、国のあり方を議論することなくして税制を議論することはできません。そして、その税制の正しい運用やそもそもの問題点を検証することができるプロフェッショナルこそが税理士であり、民主主義にとって欠かせない存在であることがわかります。
とはいえ、そんな理屈をこねくり回しても、説得力もなければ、誰も興味がないというのが実際ではないでしょうか。
しかし、そうした税理士活動を体現してきた方々が現実に存在します。その1人が山本先生であることは言うまでもありません。その人生そのものを伝えることで「職業としての税理士」を表現できるのではないかと、直感的にではありますが、考えました。
そこで、先生の生きざまから税理士が担うべき民主主義請負人としての使命を伝えてほしいとお願いに参上しました(本書の「おわりに」に詳しく書かれています)。この本は、そんな思いで作った編集者としても渾身の1冊です。
執筆途中の2020年11月に先生がお亡くなりになり、一度はこの出版企画は頓挫しかけました。しかし、先生は、1冊にまとめるのに十分な量の原稿を遺してくださいました。それを、そのまま眠らせるのはあまりにもったいない。そうして、ご遺族や関係者の方々のご厚意・ご支援により、先生の1周忌を前に本が完成しました。
発売から1年が経ちましたが、この本に書かれている内容が色あせることはないと思いますし、この先もずっと読み継がれていってほしいと願っています。