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リスクシェアリング装置としての日本企業(第2回) 戦後


1.はじめに      

敗戦と将来の不安

すでに指摘したように、戦前において感染症がもたらす不確実性(あるいはその他の将来に関する不確実性)が測定不能なものであり、かつ政府がそのような不確実性への対応手段を提供しない(できない)とするならば、そのような不確実性への対応手段を政府の代わりに提供する主体が必要となる。前回述べてきたのは、戦前において企業がそのような対応の手段を提供してきたのではないかということであった。

しかし、少なくとも感染症に関していえば、一方で抗生物質の普及や医療技術の進展、他方での公衆衛生の進展(例えば前回述べた1948年のBCGワクチンの義務化)により、戦後になって感染症の脅威は大幅に後退した。『感染症と経営』でも指摘した、戦後における平均寿命の急速な伸びと、結核による死亡率の低下はこのことを示している。

それでは、人々の将来に関する不確実性、とりわけ真の不確実性(測定不能な不確実性)というのは消えてなくなったのだろうか。戦後日本の状況を考えると、感染症によるものとは別種の、しかしやはり測定な難しいような不確実性が(測定可能な不確実性=リスクとともに)存在していたものと思われる。それは、日本経済の将来および自分の将来の収入に関する不確実性である。

よく知られているように、第二次世界大戦における日本の敗北により、日本は海外における領土を喪失し、それぞれの地域に住んでいた人々は日本に帰ることになった。また、出征していた兵士たちも復員し、日本に戻ってきた。一方で農業部門の生産能力も低下していたため、食糧供給には限界があり、配給される物資も足りなかった(このために闇市が発達したわけである)。また、戦時の爆撃等により工場や船舶が失われ、また戦争に投入した多くの資源も失われたために工業生産能力や輸送能力が大きく低下した。このような状況のためにインフレも急速に進行し、食料供給の不足と物価高騰により飢餓に近い状態が発生していた(以上につき、武田, 2019, 7章; 三和・三和, 2021, 13, 14章)(注1)。

(注1)例えば『鶴鉄労働運動史』(日本鋼管鶴見製鉄所労働組合編, 1956)では、「食糧の危機」と題する章の中で当時の状況が描かれているが、その中では「鶴鉄表門から大東町へ歩いて行くと、道ばたに、飢えた老婆がうずくまつて死んでいた」という一節(82頁)があり、文字どおり飢餓状態に近かったことがわかる。とりわけ1946年5月ごろには食糧メーデー等の食糧を求める運動が広がっていた。

企業の粗製乱造

また、企業自体の先行きも必ずしも安定していたわけではない。連合国軍最高司令官総司令部、いわゆるGHQによる経済・社会システムの改革が進み、従来の社会構造が大きく転換した。このような社会の変化は、新しい企業が生み出されるのを助ける一方で、多くの企業の倒産をもたらした(清水, 2022)。

この時期設立された企業としてはソニーやホンダ(本田技研工業)などが知られているが、生きるためにとりあえず作って動き始めたような企業も多く、事業のやり方もしばしば場当たり的であった。

このような状況は例えば城山三郎によって書かれた、近畿日本ツーリストの社史的小説である『臨3311に乗れ』(城山, 1980)に描かれている。タイトルの「臨3311」は修学旅行用の臨時列車であり、設立されたばかりの日本ツーリスト(後に近畿日本航空観光株式会社と合併、近畿日本ツーリストとなる)に面接にやってきた青年が、その日に採用されていきなりこの臨3311に添乗員として乗せられるシーンからこの小説は始まっている。

また、山口瞳『江分利満氏の優雅な生活』(山口, 1968)の主人公、江分利の父親がいかに描かれているかを見るとこの時代の雰囲気もわかってくる(113-116頁)。江分利の父は戦時中に町工場を経営して戦争成金になるが、その工場や家は戦争中にそっくり焼かれてしまう。その後、昭和23(1948)年に工場を建てては失敗し、江分利の一家は夜逃げのような形で出ていくが、「24年暮には、かなり大きな工業会社に入社し、25年には社長になる」(115頁)。
しかし、江分利の父が病気をし、回復すると1年足らずでつぶれてしまう。「つまり、それが「戦後」というものであったのだろうが、ひとつの会社をつぶすとすぐにドン底生活になり、別会社を起こすと、赤字黒字にかかわらず、生計が立った」(116頁)という描写は当時の会社のいわば粗製乱造ぶりを表している。

あとで述べるようにすべての企業がそうだったわけではないが、企業の先行きが見えにくい状況であったとはいえるだろう。すなわち、戦後に感染症の脅威が遠ざかった一方で、日本経済全体の先行きあるいは企業の先行きの不透明性という不確実性が存在し、それは大きな脅威として人々にのしかかっていたのである。

2.戦後における不確実性への対応

敵対的な労使関係の理由

このような中で労働者たちは、先行きが見えない企業で働きながら、まずはその生存のために生活費を保障するための給与を求めていった。言い換えれば、彼らはまさに「生きるために」働き、賃金を得ようとしていたのである(注2)。当時の代表的な賃金体系として知られる電産型賃金体系は、現代の我々の視点から見ると生活保障の要素が強いように思われるが、この当時の状況を考えると理解できるものである(注3)。また、1940年代から50年代半ばにかけて労使関係は敵対的であり、数多くの争議が起こったことで知られるが(武田, 2019, 313-315頁)、この状況もまた生存のために多くを得ようとする労働者と、企業の生き残りを考える経営者とのぶつかり合いと考えることができよう。

(注2)「明日食う米はおろか、今日をしのぐ藷[編注:イモ]すらが、容易には手にはいらなかつた。自分たちの生活は自分たち自身の手で守らねばならぬことを、誰れもが、黒く澱んだ栄養不足の皮膚をとおして、からだで感じとりはじめた。
資本家のお仕着せに頼ることは、口をあけて死を待つことにほかならなかつたのだ。」(日本鋼管鶴見製鉄所労働組合編, 1956, 50頁)

(注3)電産型賃金体系が生活権・生存権の擁護という目的に基づき、「生活費を基準とする最低賃金制」として、生計費の調査に基づいて設計されたことにつき、河西(1999, 70-71頁, 109-136頁)参照。

企業の将来性とリスク共有型労使関係への転換

といって、労働者たちはすべての企業の先行きに悲観的だったわけではない。例えば上記の『臨3311に乗れ』でも、戦後に日本ツーリストに就職する人々の中には「なんとなくおもしろそうな会社だ。それにこれまで四年保っているから、あと十年は保つだろう」、あるいは「将来性がある」「小さい会社だから、四、五年のうちに重役になれる」と思って入社してきた人々がいたことが描かれている(83頁)。すなわち、将来性があると思われる企業というのは貴重であり、(他の企業と比較して)そのような企業に就職することで、自分も生きていくことができると考えているわけである。

この点で、上でも触れた『江分利満氏の優雅な生活』の主人公、江分利が復員後、「会社がつぶれるのに立ちあったり、別の会社へ移ったりすることにアキアキしていた」(189頁)が、たまたま東西電機という会社に職を得て、この会社が急速に成長したおかげで「江分利みたいな途中入社の給料があがって、どうやら暮らせるようになった」(191頁)とされていることは興味深い。それだけでなく、江分利は東西電機の社宅に住むことで、ようやく妻と子と安定的な生活を営むことができるようになったのである(この点については鈴木(2022, 終章)を参照)。すなわち、将来性がある企業の中で真面目に働くことで、生きるために必死に戦わなくてもある程度生きていけるようになるわけである。

このような状況は、労働者たちに生きるために企業と戦うこととは別の解をもたらした。すなわち、将来性があると思われる企業に就職し、そこで真面目に働く。それだけでなく、企業を生き残らせるために、労働者はある程度企業の意向に従う。具体的に言えば、企業が残業を命じれば残業をし、配置転換を命じられれば配置転換に応じる(注4)といったようにある程度企業の都合に合わせることで、事業がうまくいくようになり、それによって自分たちが生きることに伴う不確実性を吸収してもらうことができるようになる。もう少し理論的な表現をすれば、労働者は自らの将来に関する不確実性やリスクを企業に吸収してもらう一方で、そのような企業の不確実性吸収能力を維持するために、企業が直面するようなリスクや(真の)不確実性の一部を共有することで、それぞれが直面するリスクや不確実性に対応しようとしたわけである。労働者からすれば、このようにすることで将来に関する見通しが立つことになる(清水, 2022; 高橋, 1997; 高橋, 2004)。

このような仕組みの前提条件となるのは、企業の将来性があること、言い換えれば企業が長期的に存続し、労働者との関係を維持可能なことである(清水, 2022)。もちろん、企業が直面するリスクや不確実性を労働者が共有することで、企業の存続可能性は高まることになるが、そもそもの前提としてこの解が成立するためには企業が将来も存続し、労働者との関係を維持できなくてはならない。このような条件は戦後直後の混乱期では満たされていなかった(ためにこのような解は成立せず、労働者と企業はぶつかりあうしかなかった)が、高度成長期に入り企業がより安定的な存在になったことで、このような解が成立することができるようになった。高度成長期以降、とりわけ1960年代前半以降に東証一部上場企業の上場廃止の可能性や廃業率が低下したことは(清水, 2001; 清水, 2022)、このような前提が一定程度満たされるようになったことを意味している。

(注4)吉田(2012)が紹介する日産自動車の事例を見ても、戦後直後の時期では交通事情なども整っておらず、配置転換にはかなりの困難が伴ったことがわかる。しかし、この事例がそうであるように、戦後直後の時点においても、解雇回避の手段としての配置転換が検討されていたことは注目に値する。

3.リスクシェアリング装置としての日本企業の確立

長期雇用、年功型賃金等の日本型経営の発展

企業と労働者がそれぞれのリスクや不確実性を共有する、すなわち企業がリスクシェアリングの装置となるというこの解は、高度成長期を通じて雇用や賃金に関する制度や慣習として定着していく。例えば、長期雇用やある程度年功に基づいて運用される賃金体系や昇進の仕組みにより、将来職を失う可能性がもたらす不確実性や、生計費の増大によるリスクを企業が吸収することができる。このような意味で、長期雇用や年功型賃金はリスクシェアリングの形態と見ることができる。

そして、『感染症と経営』(清水, 2021)でも述べたように、雇用の長期化はホワイトカラー労働者については1920年代から発生しており、ブルーカラー労働者についても一部の企業で雇用の長期化が見られることが指摘されている(例えば間, 1978, 208頁)ものの、ブルーカラー労働者については必ずしも広く見られる慣行ではなく、また関口(1996, 10頁, 75頁)が指摘するようこの時期の終身雇用慣行はあくまで雇用者の解雇の権利が留保されたものであった。いわゆる終身雇用が制度としてある程度定着するのは高度成長期の1960年代である(関口, 1996, 11頁)。

また、先に触れた戦後の生活保障給はその後一部の企業による職務給の導入の試みを経て、現在の職能資格に基づく職能給とその年功的な運用(すなわち、いわゆる年功型賃金)につながるが、この職能給の導入は1960年代後半以降とされる(例えば楠田, 2004; 笹島, 2011)。

企業に依存する「企業中心社会」

ただし、一方で、長期雇用が定着することで転職が難しくなり、労働者は特定の企業により依存的になる(清水, 2021)。企業と労働者がそれぞれのリスクや不確実性を吸収すること自体は企業と労働者のパワーバランスにかかわらず成り立ちうるが、転職が難しくなると、労働者が特定の企業に依存的となり、企業の不確実性やリスクを労働者が吸収するその程度が高まっていく。

この結果として生じるのが、企業に対する過剰とも見える忠誠心を労働者が持ち、ゆえに私生活を企業が侵食していく社会、大沢(2020)の言葉を借りれば「企業中心社会」であった(注5)。そして、この「企業中心社会」においては様々な問題が発生した。例えば性別の役割固定化による、一方での男性の長時間労働や過労死、あるいは企業のための自殺と、一方での女性の賃金・雇用に関する差別等である。ダグラス・グラマン事件と呼ばれる贈収賄事件の中心人物と目された日商岩井の常務が1979年に自殺した事件は、まさにこのような「企業中心社会」の問題の1つを示している(なお清水, 2022)。その遺書には

「会社の生命は永遠です。その永遠のために私達は奉仕すべきです。
 私たちの勤務はわずか20年か30年。でも会社の生命は永遠です。それを守るために男として堂々とあるべきです」

という文章があり、企業の寿命の長さに対する認識と企業に対する過剰とも見える忠誠心が見て取れるだろう。

さらに言えば、しばしば日本の企業が共同体的とされ、労働者が企業に帰属し、あたかも共同体の一員であるかのように振る舞うとされるのも、日本の伝統等というよりもこのようなリスクの共有という解と企業への依存度の高まりによったのではなかったかと思われる。

(注5)ただし、大沢(2020)も指摘するとおり、上のような解の成立から一足飛びに企業中心社会に至ったわけではない。大沢(2020)は、企業中心社会の定着を1973年の石油危機以降としている。

共同体としての日本企業

文化人類学者である韓敬九は日本企業のフィールドワークをもとに、日本企業の共同体的な特質のかなりの部分は共同体を作り上げる意識的な努力の結果であることを指摘している(韓, 2002; 韓, 1994)。共同体というアイディアは1930年代にナチスドイツから輸入されたものであるが、労使間の対立に代わる理念型として戦後特に利用されることになった。そして、このような共同体という理念のもとで、企業が労働者に安定と繁栄を約束し、かつそれが実際に満たされたことを韓(2002)は指摘している。

すなわち、上のような解を支える理念型としての共同体は戦後に利用されはじめ、そのような解が機能したことで「共同体」というアイディアが広く認識されるようになったわけである。この結果として、企業に労働者が帰属するという感覚がより自然なものとなり、労働者は企業により依存的になったと思われる。

そして、この企業と労働者のリスクの共有という解と企業への依存という状況は先に述べたような多くの問題をもたらしつつも、ある程度機能したように思われる。もちろん、高度成長という要因がこのような解を支えたことは間違いないが、企業と労働者がそれぞれのリスクや不確実性を共有することで、企業と労働者の双方にとってある程度望ましい状況がもたらされたように見える。すなわち、雇用は維持され、ある程度昇進や昇給も期待できる一方で、企業は労働者を(その私生活にかかわる部分までを含めて)ある程度まで自由に労働者を動かすことができた。そうであるがゆえに、このような仕組みは問題がありながらも長く維持されてきたわけである。

小 括

まとめると、戦前おいては企業がいわば一方的にステイクホルダーに不確実性に対応する手段を提供してきた。しかし、戦後直後の混乱期を経て、企業と労働者との関係については、お互いにリスクを共有するという仕組み―すなわち、リスクシェアリング装置としての企業―が形成され、高度成長期に確立していった。ただし、その中で転職が難しくなったこともあり、企業への依存が高まり、労働者が企業に依存する企業中心社会に繋がってしまった。ただし、その結果多くの問題がありつつも、リスクシェアリング装置としての企業は維持されてきた、ということになる。

ただし、ここでは企業と労働者の関係のみを論じており、消費者や株主のような他のステイクホルダーとの関係がどうだったのかについては必ずしも明らかではない。また、このような仕組みが現代においてどのような意味を持つのか、についても論じる必要があろう。次回はこれらの点を検討する。

参考文献

大沢真理(2020)『企業中心社会を超えて:現代日本を〈ジェンダー〉で読む』岩波現代文庫(原著は時事通信社, 1993年).
河西宏祐(1999)『電産型賃金の世界:その形成と歴史的意義』早稲田大学出版部.
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笹島芳雄(2011)「生活給:生活給の源流と発展」『日本労働研究雑誌』609, 42-45.
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間宏(1978)『日本労務管理史研究:経営家族主義の形成と展開』御茶の水書房.
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著者略歴

清水剛(しみず・たかし)
東京大学大学院総合文化研究科教授
1974年生まれ。1996年東京大学経済学部卒業、2000年同大学大学院経済学研究科修了、博士(経済学)。東京大学大学院総合文化研究科専任講師、同助教授、同准教授を経て現職。この間、ソウル大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで客員教授、イェール大学、カリフォルニア大学バークレー校で客員研究員を務める。専門は経営学、経営史学、法と経済学で、とりわけ企業システムおよび企業経営と法制度の相互作用に関する研究を行っている。
Twitter:https://twitter.com/TakashiShimiz17
researchmap:https://researchmap.jp/takashipandashimizu

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感染症と「死」、そして企業経営

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リスクシェアリング装置としての日本企業(第1回) 戦前

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