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リスクシェアリング装置としての日本企業(第1回) 戦前

1.はじめに      

拙著『感染症と経営』(清水, 2021)が刊行されてからすでに2年が経過した。この間、予想を超えて売れるということもなかったが、広くお読みいただき、それなりの反響があった。結果として、新聞や雑誌の書評で取り上げていただき、いくつかの学会での招待講演や基調講演、あるいはセミナーや実務家向けの講演の機会もいただくことになった。改めてこの間、拙著に関心を持っていただいた多くの方々に感謝を申し上げたい。

この間、講演等の際に『感染症と経営』で述べたアイディアを改めて整理し、また関連する論文(清水, 2022)を執筆しながら、この本で考えたことが戦後の日本企業にどのようにつながっていくのかを考えてきた。また、少し前に新型コロナウイルス感染症(以下、「COVID-19」)にり患し、自らが感染者の立場になったことで、感染症について実体験として感じる機会を得た。そこで、これらを踏まえて、改めて戦前において感染症がいかなる形で人々の生活、そして企業との関係に影響を与えたか、それが戦後になってどのように変化し、その結果としていわゆる日本型の企業システムの形成にどのような影響を与えたかを論じてみることにしたい。

ちょうど先の5月8日に新型コロナウイルス感染症が感染症法上の分類でいう二類相当からインフルエンザや百日咳等と同等の五類感染症に移行し、新型コロナウイルス対策が1つの終わりを迎えた。言い換えれば、COVID-19も日常的な病気となり、日本社会が「withコロナ」の社会になったことが改めて示されたわけである。我々が「withコロナ」の時代をどのように生きていくのかを考えるために、ここで感染症の時代を経て、日本企業の仕組みがどのように変化してきたかを改めて振り返ってみよう。 

2.感染症がもたらす不確実性

(1)個人的な体験としてのCOVID-19感染

まず、個人的な体験を必要以上に一般化しないよう気をつけつつ、自分がCOVID-19に感染したことにより気づいたことを述べていこう。
気づいた点は大きく2点ある。
 
まず1点目は、思ったより多くの人が感染している、という点である。「感染しました」という報告をすると、「いや実は私も○月に感染しました」とか「私も感染しましたけど、大変ですよね」とかおっしゃる方が意外に多い。私がこういう会話をした方の多くが大学教員で、大学教員はこれまで比較的リモートワークが多かったためにあまり感染していないのかと思っていたら、例えばお子さんからの感染のような形でCOVID-19は相当に広まっていた。比較的広がりが遅いといわれていた日本でこの状況なら、米国や英国、欧州等ではもう相当に広がってしまっており、いわゆる集団免疫の獲得に近い状態になっているのかもしれないと思うようになった。

もちろん、医学的にいわゆる集団免疫の獲得に至っているかどうかは検証されるべき問題で、素人が判断できるようなものではないが、感染症というのは早い遅いはあれども最終的に社会の中に広まる(ゆえに多くの人が感染する)ものなのだということが実感できた。ワクチンも抗生物質もまだ十分に広まっていない戦前(注1)においては社会の中で広まるスピードはより速く、またワクチンで免疫を獲得することもできなかったために、社会の多くの人々が実際に感染しただろうことが想像される。
 
2点目は、感染することによって生じる不安感である。もちろん、『感染症と経営』を書いたときにCOVID-19による死亡率も調べており、40代の人間の死亡率は非常に低いことは知識としては持っていた。しかし、私自身重症化リスクが高い基礎疾患を持つ(深刻なものではないが)こともあり、万が一重症化したらどうなるのかという不安が頭をよぎった。

もちろん、最初に我々がCOVID-19感染拡大の波に直面した時期と異なり、現在では重症化率も致死率も大きく低下している(注2)。この背後には適切な医療の提供や治療薬の開発などがあり、社会全体で見れば明らかにより安心できる状況になっている。しかし、発生する可能性が少ないとはいえ、実際に重症化し、さらに死に直面したらと考えてみると、やはり不安を感じないわけではない。もし万が一重症化したら入院をしなくてはいけないが、その間家族はどうなるだろうか、仕事はどうなるだろうか、さらに可能性は低いとしても死ぬことになったら何が起こるのか、残された家族の生活はどうなるのか…などということは若干頭をよぎった。

感染した個人から見ると、COVID-19による重症化率あるいは致死率は低いとはいえ、もし実際に重症化、あるいは死ということになった影響は重大であり、かつどの程度の影響なのかを予測することは難しい。もちろん、例えば医療保険・生命保険のような形で入院や死亡という状況における経済的な影響を緩和することはできるが、本人の健康が損なわれることによる将来への影響等も考えれば、COVID-19による影響は保険だけでカバーできるようなものではなく、そもそもダメージの大きさを見積ることも難しい。 

(注1)結核のワクチンであるBCGワクチンは20世紀初頭に開発され、日本でも1924年に志賀潔によって導入されているが、接種が法制化されたのは1948年の予防接種法による(戸井田, 2004)。また、抗生物質についても、世界で最初に発見されたのはペニシリンの1928年だが、日本で抗生物質が実際に導入されたのは戦後であり、抗生物質の利用により結核による死亡率が低下したのは1950年代である(熊澤他, 2002; 池田他, 2003)。

(注2)当初、重症化率は5%程度といわれていたが、第6波については0.44%程度と推定されている。また、致死率については当初80代以上で12%、全体で1.6%とされていたが、第6波中の令和4年3-4月で80代以上で3.1%、全体で0.1%となっている(厚生労働省, 2020, 同『第6波における重症化率・致死率について』https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000987078.pdf )。 

(2)真の不確実性としての感染症に誰が対応するのか

経済学者フランク・ナイト(Frank H. Knight)はその主著『リスク、不確実性、利潤』(Knight, 1921)の中で予測可能な(測定可能measurableな)将来の危険性をリスクと呼び、これに対して予測できない、あるいは測定不能な将来の危険性を真の不確実性(true uncertainty)と呼んだが、少なくとも個人にとっては感染症が引き起こす影響は個人によって様々に異なり、測定不能なものであり、この意味で個人から見れば真の不確実性のケースと考えるほうがよさそうである(注3)。

そうであるがゆえに、そのような不確実性、すなわち感染症が個人に対して引き起こすような不確実性を何らかの形でカバーする(そのような事態が発生する可能性それ自体を低下させ、あるいはそのような事態が発生したときのための保障を提供する)ことが望まれるわけである。なお、すでに述べたように、このような事態は個人にとってみればその影響が予測できない、真の不確実性のケースであるとしても、そのような不確実性を集合化させることによってある程度対応することは可能である(Knight, 1921, ch. 8)。

そして、企業が多数の労働者に対して真の不確実性に対する手段を提供することは(実際に感染した人に生じる損失のすべてをカバーできるわけではないとしても)このような集合化の1つの方法となる(注4)。また、このような真の不確実性を集合化したとしてもやはり予測不可能な部分については、経営者が(経営者自身の判断のもとに)それを引き受けることになるが、このような真の不確実性に対する対応こそが企業家の能力であるとナイトは考えていた(Knight, 1921, ch.9)。すなわち、企業家に率いられた企業こそがこのような状況にうまく対応できると考えていたわけである。
 
現代では、感染症への対応はまず政府の役割であると考えられている。インフラとしての病院の整備や、病床の確保、ワクチンの接種、企業に対する休業の要請やその際の支援金の支払、感染時の医療の提供やモニタリングの実施等、感染症に対する対応を国と地方自治体で分担して実施しているわけである。これは、いわゆる福祉国家の1つの側面といえるだろう(e.g. Garland, 2016)。

しかし、政府「だけが」これに対応するのか、というともちろんそうではない。例えば、COVID-19に対するワクチンの職域接種などは企業等の事業所が実施している。あるいは感染時であっても従業員としての地位を維持し、あるいは濃厚接触者になったときに自宅就労や自宅待機のような形で対応するのも企業が行っている。そもそも、健康保険制度自体が都道府県や市町村の管轄である国民健康保険だけでなく、企業等が設立する健康保険組合や、公務員等のための共済組合等、企業によって、あるいはその他の組織によって作られた組合が担当しているわけである(吉原・和田, 1999)。

もちろん、これ以外にも例えば親族間の相互扶助や、地域のコミュニティ、その他の団体(慈善団体等)が感染症への対応手段を提供しうる。しかし、このような中で、企業というのは近代社会の主たるアクターの1つであり、かつナイトが示すように企業は真の不確実性に対する提供をうまく提供できる存在である。それゆえに、現代においても企業が感染症への対応手段を提供しているわけである。

(注3)あるいは、酒井 (2012) が述べているように心理的な要素を含むから不確実であると考えるべきかもしれない。

(注4)この点について、ナイト自身が真の不確実性に対する集合化による対応の例として疾病保険や労働者に対する災害補償の例を挙げている(Knight, 1921, pp. 248-249 邦訳pp.327-328)。 

3.戦前における不確実性への対応

(1)社会保障に対する政府の対応能力の限界

① 一般会計予算(社会保障費)の規模
そして、『感染症と経営』で述べたように、戦前の日本社会は感染症への感染の可能性が高く、ゆえに感染症がもたらす不確実性もより大きかった。また、当時の税収の規模や使途を見ても、社会保障に充てられている部分はごく小さかった。

大蔵省(現財務省)が編集した『昭和財政史』の資料から、1926(昭和元)年の費目別の歳出を見てみよう(大蔵省昭和財政史編集室, 1955, 資料Ⅱ 統計, 7-8頁)。この年の一般会計予算(これ以外に特別会計があるが、ここでは取り上げない)の歳出総額は約16億円。現在の通貨に直すと(当時の1円=現在の2,000円として)3兆2,000億円。単純な比較はできないが、現在の一般会計歳出総額100兆円超と比べるとやはり規模が全く異なる。

GDP(戦前はGNP)との比で見ると、令和2年度の一般会計予算はGDPの24%(補正予算込み)、昭和元年度はGNPの10%となり、だいぶ差は縮まるが、しかしやはり戦前の予算は小さいということになるだろう。しかも、昭和元年度の支出費目別に見ると最大が軍事費(27.8%)、次が国債費(14.8%)で、社会保障費に相当すると思われる年金恩給費+厚生施設費(注5)は9%に過ぎない。現代の社会保障支出が一般会計の30%程度を占めることを考えれば、社会保障に充てられている部分が小さいこと、というよりそもそも税収がそこまで大きくなく、かつ軍事費等に支出されてしまうために社会保障に支出できないという状況がわかるだろう。 

(注5)実際にはほかにも費目が混じっていると思われるため、あくまで目安である。 

② 社会保障に関する諸立法
また、そもそも社会保障というアイディアそれ自体も新しいものであった。国家による労働者の社会保障を最初に作り上げたのはドイツ帝国であったといわれるが、これらの社会保障に関する諸立法、すなわち疾病保険法(1883年)、労災保険法(1884年)、老齢・障害保険法(1889年)は19世紀末に導入されたものである(例えば坂井, 2021)。日本での最初の労働者保護立法といわれる工場法は1911年制定で1916年に施行され、それ以外の労働者の社会保障に関する立法については、疾病保険法案、労働組合法案、失業保険法案等が1917年頃から検討されたものの、結局健康保険法のみが1922年に成立し、労働組合法案と失業保険法案は戦前には成立しなかった(吉原・和田, 1999; 加瀬, 2006)。国民健康保険法が成立したのはこのしばらく後、1938年である。すなわち、日本において国家による社会保障というアイディアは新しいものであり、1920年代にようやく部分的に実施されはじめたものであった。
 
まとめると、感染症のような不確実性の影響は大きく、ゆえに対応する必要性も大きい一方で、現代における対応の主体である政府にはそのような対応ができる余裕もなく、またそもそも政府がそれをすべきだというアイディアそのものがまだ新しいものであり、日本において実施されはじめるのは1920年代に入ってからであり、かつそれも部分的なものであった。

(2)ステイクホルダーが抱える不確実性に対する企業の役割

① 労働者
様々な事情はあったが、このギャップ、すなわち感染症が個人にもたらす不確実性への対応の必要性と政府による対応の欠如を埋めたのが企業による対応であった。このようなギャップを埋める存在としての企業は、例えば1922年の健康保険法の成立時にすでに鐘紡共済組合等、企業が自主的に作った共済組合が50程度存在していたこと、また健康保険法においても原則として企業が健康保険組合を作って健康保険を提供するとされていたことに見ることができる(吉原・和田, 1999, 44-46頁)。

もちろん、これは企業にとっても新しい試みであり、ドイツや米国等における先駆的な試み(注6)に基づいているとはいえ、日本でどのような施策が適切であるかはまだ何もわからない状態であった。この意味で、例えば労働者福祉についていえば、武藤山治や大原孫三郎が、フランク・ナイトの言う意味での「企業家」として、すなわち真の不確実性を引き受ける形で労働者福祉を進めたことで企業が対応の主体となることになった。そしてまた、このような対応の引き金の1つとなったのが結核などの感染症に対する対応であった(この点についてはShimizu, 2021)。 

(注6)例えば武藤山治の手記である『私の身の上話』(武藤, 1934)を読むと、鐘紡共済組合のアイディアの元となっているのはドイツのクルップ社の共済組合等の労働者福祉施策であり、労働者が直接意見を伝える注意箱は米国のNCR社の施策であったことがわかる(221, 231-232頁)。このように、企業が労働者に対する対応を考えるにあたっては、米国や欧州における先駆的事例が参照されていた。 

② 消費者
消費者との関係についていえば、例えば百貨店という形式が19世紀末から20世紀初頭にかけて導入され、1920年代ぐらいには一般市民にまで広まり、かつ生活必需品も売るようになるという動きは感染症を直接の引き金としているわけではないが、感染症を含む不確実性が生活に対してもたらす不安(健康に関する不安から、生活必需品を確保できるかどうか、物価上昇の中で安心してかつ安価でものを買えるかどうか等)に対応したものであったとはいえるだろう(例えば初田, 1993, 174-179頁)。

同様の動機は、例えば消費組合の設立や雑誌社による通信販売についても見られる。例えば消費組合の設立は第一次世界大戦後の好景気の中での物価上昇や生活不安によるものであり(「神戸消費組合の設立」労働者新聞1920年8月15日)、また雑誌社による通信販売における主力商品が健康食品や漢方を含む民間薬であったこと(注7)、『主婦の友』の主要な記事の1つが健康関係の体験談などであり、そのような体験談で取り上げられた民間薬がしばしば代理部で販売されていたこと(注8)、そしてそのような中に結核(肺病)などの感染症がしばしば含まれていたこと(注9)などを見ると、感染症を含む生活上の不安が消費組合や雑誌社の通信販売を利用する大きな動機の1つになっていたことがわかる。 

(注7)初期の「活力素」や鎮痛作用のある「おおつづらふじ」等。主婦の友社(1967, 63-64頁, 154-155頁, 294-296頁) 参照。

(注8)「ところで民間薬ですが、昭和十二~三年頃は婦人雑誌が薬草々々といってずいぶん宣伝しましたね。松葉とか蘇鉄の葉は主婦の友が宣伝しましたね。」(長倉他, 1966) [長倉音蔵発言])。蘇鉄を販売したことについては主婦の友社 (1967, 293-294頁)も参照。松葉については例えば「不思議に病気を治し精力を増す松葉茶の効能とその作り方」『主婦之友』昭和3年8月号, 106-110頁。

(注9)例えば、「主婦之友」昭和3年2月号には「医者にも見放された難病をにんにくで手軽に全治した実験」という記事があり(161-167頁)、結核(肺病)、脊椎カリエス(結核菌が脊椎に感染した病気)、ジフテリア等をにんにくで治した体験談が掲載されているが、その記事中に主婦之友社代理部が販売する「にんにく丸」の広告が入っている。なお、にんにく療法についてはウェブ上の記事である「大正期のニンニク療法とサプリメント」https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2015-05-21も参照。 

③ 株 主
株主についても、長期的な視野を持ち、常に高配当を求めるのではなく、経営者が説得したという側面はあるにせよ、配当を抑えて投資を行うという経営者の方針に理解を示すような株主が出現してきたこと(結城, 2011; 2012)、またそのような株主は実際に長期的な考慮に基づいて判断をしていることは、例えば結城(2011)が引用している1905年の大阪紡績の株主総会における株主の発言、「之に反して,何日迄も当会社の株主として株を持って居ると云ふ考の真の株主は矢張り積立て置けば自分の者で唯会社の基礎を強固にして置けは自分等の利益である」という発言からも明らかであろう。また、東洋紡績と日本郵船という2社の分析ではあるが、配当政策は1920年ごろに変化し、払込資本金に対する安定的な配当を重視するようになったことを示す研究もある(佐野, 2019)。

問題は、このような安定的な配当政策、すなわち利益が上がればその分だけ配当するのではなく、より長期的に安定した配当を行うという方向性がどのような理由で現れたか、という点である。この理由の1つとして指摘されるのが株式所有の法人化であり(例えば北浦, 2014; 川本, 2022)、これは確かに有力な説明であるが、これは1930年代に顕著になる動きであり、もし上記の佐野(2019)が正しいとすれば他にも原因がありうる。

この点で興味深いのは、南満州鉄道株式会社(満鉄)における株主構成の変動とその理由を分析した平山(2009)である。平山(2009)では、1933年の増資を機に株主の構成が都市株主から地方株主に移っていくことを指摘したうえで、都市株主が満鉄株を売った理由が、株価や配当に対する不満というよりは将来の見通しの不透明さとそれに伴う株価の乱高下であること、言い換えれば彼らが求めていたのは「安定配当を実現しうる経営実績」であることが指摘されている。すなわち、この時期には株主は株価や配当を見るだけでなく、将来の見通しや安定的な配当を考慮して投資を行っていたのである。これは1930年代の話であるが、経営に対する不安に対して安定配当を求めるという行動が見られたことは、将来の不安に対して保証を提供するという『感染症と経営』で示した考え方が株主に関してもある程度妥当であることを示唆している。
 
以上をまとめると、戦前には感染症やその他の理由による将来の(しばしば測定不能な)不確実性が存在する一方で、政府の財政規模がそもそも小さく、また社会保障というアイディア自体もまだ普及していなかったために政府の対応能力には限界があり、そのような中で企業がステイクホルダーの将来の不確実性に対応する手段を提供してきた、ということになる。

それでは、このような企業の役割は戦後になった際にどのように変容したのだろうか、あるいは変容しなかったのだろうか。次回では、戦後における企業の役割を見ていくことにしよう。 

参考文献

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著者略歴

清水剛(しみず・たかし)
東京大学大学院総合文化研究科教授
1974年生まれ。1996年東京大学経済学部卒業、2000年同大学大学院経済学研究科修了、博士(経済学)。東京大学大学院総合文化研究科専任講師、同助教授、同准教授を経て現職。この間、ソウル大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで客員教授、イェール大学、カリフォルニア大学バークレー校で客員研究員を務める。専門は経営学、経営史学、法と経済学で、とりわけ企業システムおよび企業経営と法制度の相互作用に関する研究を行っている。
Twitter:https://twitter.com/TakashiShimiz17
researchmap:https://researchmap.jp/takashipandashimizu

【清水先生・連載のご紹介】

感染症と「死」、そして企業経営

弊社緊急情報発信サイト『新型コロナ危機下のビジネス実務』において、2021年5月8日に掲載した連載のアーカイブです。同サイトは、2020年から新型コロナウイルスの感染拡大を受け、社内有志で緊急的に立ち上げた情報発信サイトであり、サイトの趣旨に賛同いただいた東京大学の清水剛教授に『感染症と「死」、そして企業経営』と題して連載を行っていただきました。

第1回 戦前の日本社会から「コロナ後」を考える
第2回 三越・主婦之友・生協はなぜ誕生したか
第3回 戦前日本企業は短期志向をどのように克服したか
第4回 「風立ちぬ」、樋口一葉、そしてUber運転手ー『感染症と経営:戦前日本企業は「死の影」といかに向き合ったか』へのイントロダクション