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【著者解説】 誰かに伝えるということ:『揺さぶる経営学』での木版画作成プロセスからのリフレクション

2024年1月5日(金)
柳 淳也

いきなりこうした書き出しで始めるのもどうかと思うのですが、自分で自分の著作を紹介するというのは、なかなかに難しいものです。書いてあることについては書籍を読めばよいわけで、必要とあれば、その書籍の一部を例えばまるごと引用して紹介すればよいからです。

ですので、今回は、本書のなかには書かれていないこと、装丁で使用した木版画について書いてみます。

本書『揺さぶる経営学』の表紙には、ネコ二匹の版画を用いていますが、この版画は、実は、ある展覧会に触発されて私が作成したものでした。少しその展覧会の話をしたいと思います。

その展覧会とは、2022年に町田市立国際版画美術館で開催されていた企画展「彫刻刀が刻む戦後日本ー2つの民衆版が運動」(2022年4月23日~7月3日)でした。

この展覧会は、中国での木刻運動から日本での美術教育の一貫としての木版画教育まで、戦前・戦後の一連の流れを俯瞰するものでした。木刻運動は、魯迅が提唱し「抗日戦争」のなかで広まりましたが、その背景には、「民族の独立、帝国主義・封建制反対、農民の生活や、庶民が豊かな生活を送るための啓蒙などを、文字が読めない人々にも伝わるように絵を通して広め」(彫刻刀が刻む戦後日本ー2つの民衆版が運動, p.9)るという意図がありました。

戦後すぐに中国木刻運動が日本で紹介されたことをきっかけに版画運動が広がり、戦後すぐの庶民の様子や、神戸における在日コリアンの運動、炭鉱や農村の抵抗運動などが表現されるようになります。

1950年代になると日本教育版画協会が設立され、教育のなかでの版画制作が取り入れられていきます。庶民の日常の一コマや、地域の歴史、高度経済成長下の公害問題など題材が変わりつつも、一人ひとりが製作者となり版画を作成していくことになります。日本の公教育を受けた私達の少なくない人が版画製作を学校で経験しているのは、こうした歴史的背景があるからなのです。

この展覧会を通して私が受け取ったメッセージは、こうした2つの大きな区分はあっても、木版画はいつでも人々とともにあったということです。多くの芸術が富裕層や一部の上流階級の庇護のもとで守られてきた、あるいは、価値が高められてきたのと対照的に、版画は無名の人々が、木と彫刻刀さえ入手できれば、誰でも創作できるものでした。

ここで本書に話を戻すと、『揺さぶる経営学:LGBTQから問い直す企業の生産性』の題材は、そのタイトルからも明らかなようにLGBTQの人々についてです。彼|女らがどのように企業のなかで生きているのか、企業はどういった施策をしているのか、経営学はそうしたマイノリティに対してどのような態度で分析しているのか、こうしたことを検証しています。そのなかで私が特に気をつけていたことは、無名の人々の声を消さないようにすることです。

名前のない人、名前を到底どこにも残すことなく死んでいく人々の声に耳を傾け、彼|女らの声をどのように拾い上げることができるのか、です。仮にできなかったとして、それでも忘れずに祈り続けたり、信じ続けたり、私が声をあげ続けることはできるのか、を考えて執筆してきました。

そうした無名性を考えたときに、ふと展覧会での木版画を思い出したのでした。過去のあらゆる抵抗運動に用いられたであろう木版画の営みが教育現場で継続し、その歴史的な流れのなかに私の学生時代に受けた版画教育の経験もあり、さらに奇跡的に錆びた彫刻刀がまだ家にある、と。無名の対象を自ら彫ろうと決め、精神的に参っていた時期にいつも一緒にいてくれたネコ2匹を彫ることにしました。

完成した木版画(刷る前)
完成した木版画(刷る前)

実際に木版画を彫るということを通して、予想以上に私は様々なことを学びました。

彫刻刀を研ぐこと、自分の手を使って彫るということ、木のままならなさを感じること、インクの機嫌を窺うこと、こうした一連の木版画のプロセスによって、自分自身が自然の一部であり、自然に関与しながら、自然とともに共同でなにかを作り上げている主体であることを気づかされました。

高度に専門家された集団のなかで、分業が「疎外」であるというのは、古典的な議論ですが、木版画を作成するというのは、消費のあり方を考えるということでもあるのだなぁとぼんやりと考えていました。

つまり芸術的な事柄というのに対して、私自身が、お金を出して絵画を美術館で鑑賞したり、舞台で演劇を見たり、音楽をコンサートホールで聞いたりするわけですが、それまで私は自分で描いてみよう、自分が演じてみようなどと、日常では全く思わなかったわけです。

ただ、本来的にはよくよく考えると誰が描いても、誰が演じてもよいのです。ある種の人にとっては何を当たり前のことを、と思われるでしょうが、高度に(あるいは過剰に)専門化された社会のなかにいる私にとって、自分自身が創作のプロセスに携わってもよいのだということも大発見でした。

刷り上がった版画
刷り上がった版画

木版画とは不思議なもので、摺ると毎回違う景色が見えてきます。毎度違う表情の彼|女らが登場します。インクと木と私の力加減と紙との作用によって、毎度、違うものが立ち上がってくるわけです。

ただこれもよくよく考えると、本来は、コピー機でも毎度揺れているはずなのです。どんなに工業製品化されたものでも、本来一枚一枚紙は違うはずですし、印刷機の具合も異なるはずです。本当に細かいところでは差異があるはずです。でもその揺れ(差異といってもいいでしょう)は、もはや、わたしたちの目にはうつらない。

私たちは、その揺れを受け入れられないし、揺れていることさえもそもそもなかったことになっていく。私はこうしたいちいちの事柄に驚きました。思考を物化することは、誰かに何かを伝える一つの方法ですが、ただし、いつも常に危うさを帯びているのだなと感じたわけです。

しかし、こんなに私が驚いているということこそが、一昔前の人にとっては驚きでしょうが…。

装丁の表紙となった木版画の創作プロセスでの私の学びや想いは上記のようなものです。

もし本書を手にする機会があれば、よければ装丁もじっくり観ていただけれるとありがたいです。

そしてその装丁の版画の奥に、名前を残すことなく亡くなっていった人々、あるいは今なお声をあげても聞かれることのない無数のLGBTQやマイノリティの人々の姿をみつけてほしいと思います。

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