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感染症と「死」、そして企業経営(1)|戦前の日本社会から「コロナ後」を考える

こんにちは。中央経済社note編集部会計実務担当です。
この記事は、弊社緊急情報発信サイト『新型コロナ危機下のビジネス実務』において、2020年5月22日に掲載した記事のアーカイブです。
同サイトは、2020年から新型コロナウイルスの感染拡大を受け、社内有志で緊急的に立ち上げた情報発信サイトであり、サイトの趣旨に賛同いただいた東京大学の清水剛教授に『感染症と「死」、そして企業経営』と題して連載を行っていただきました。この記事はその連載の第1回であり、当時非常に大きな反響をいただいたものです。
なお、中央経済社note編集部としての情報発信を始めたことから、同サイトを近く閉鎖する予定のため、アーカイブ記事として公開いたします。

書籍『感染症と経営―戦前日本企業は「死の影」といかに向き合ったか』はこちら

東京大学教授 清水 剛

本稿の趣旨

新型コロナウイルスは日本、そして世界の経済と企業経営に大きな影響を与えた。またそれだけでなく、新型コロナウイルス「後」の社会における経済の仕組みや経営はコロナウイルス「前」の経済や経営と異なってくるのではないかとしばしば言われている。

それでは、新型コロナウイルスの後、日本企業の経営はどのように変わっていくのだろうか。もちろん、現時点でそれを確実に予測することはできないが、過去にあった状況で似たようなものを探し、そこにおける歴史的文脈とそこで起こった変化を観察し、それを現在の状況と比較することで変化の方向性を考えることはできるだろう(橘川武郎「経営史学の時代 : 応用経営史の可能性」『経営史学』40(4), 28-45, 2006)。

このような「似ている状況」として想定されるのが、全世界的に流行したスペイン風邪の後の、すなわち戦前の日本社会である。スペイン風邪前後の社会における対応は日本のみならず世界的にも注目されており、日本でもしばしば言及されている。

そこでここでは、まず戦前の日本社会がいかなる意味で「コロナ後」の社会に似ているのかを検討した上で、そこにおける感染症や死の問題と経営の変化がどのように関連しているのかを明らかにし、そこから「コロナ後」の経営について考えることにする。


1 「コロナ後」と戦前の類似性と相違

スペイン風邪の人口当たり死者数

まず、新型コロナウイルスと比較しながら、戦前の日本社会においてスペイン風邪がどのようなインパクトを持ったのかを考えていこう。

スペイン風邪は全世界で数千万人の死者を出したとされるが、日本での死者はおよそ40万人、第1波(1918年8月-1919年7月)の死者は26万人、人口1,000人当たり死者数は4.5人となっている(池田一夫他「日本におけるスペインかぜの精密分析 」『東京健康安全研究センター研究年報』56, 369-374, 2005. 上記数値は内務省衛生局による)。

一方、新型コロナウイルスの人口当たりの死者数を見ると、一番被害の大きいヨーロッパ諸国で100万人当たり500人前後であり、これを1,000人当たりに換算すると、0.5人前後ということになる(札幌医科大学『人口あたりの新型コロナウイルス死者数の推移』)。

つまり、スペイン風邪の第一波における日本での人口当たり死者数は、現在のヨーロッパの人口当たり死者の大体10倍弱となる。日本での死者は現時点で大体100万人当たり5名程度であるから、日本の人口当たり死者数と比較すればざっと1,000倍と思っておけばよいだろう。なお、当時の日本の人口はおよそ5,500万人、現在の日本の人口の半分弱であった。スペイン風邪のインパクトは現代の日本で80万人が亡くなるようなインパクト、といえばおよそ想像できるだろうか。

もっとも、いうまでもなく戦前に人が亡くなる要因はインフルエンザ(スペイン風邪はインフルエンザの一種である)だけではない。厚生労働省の資料では、戦前の死亡の半数は感染症であるとしている(図1-2)。また、しばしば引用される厚生労働省「人口動態統計」による死亡率の推移(図14)をみると、戦前の主たる死亡要因は肺炎(インフルエンザを含む)、胃腸炎、結核であることがわかる。すなわち、インフルエンザを含む感染性の肺炎や同じく感染性の胃腸炎(赤痢等)、結核といった病気により人々が亡くなっているものと考えられる。

結核の人口当たり死者数

この中で、特に病名が明示されているのが結核であり、また1930年代には死亡要因の第1位を占めることになる。この結核の死亡率は1910年に人口10万人当たり230.2、1918年には日本で最悪の値となる257.1、その後緩やかに低下するものの、戦時にまた増加し、1944年に235.3となる(岩崎龍郎「日本における結核の歴史:結核はヨーロッパ人 が伝播したのか」『結核』56(8), 407-422, 1981. )。その後、1951年に特効薬となるストレプトマイシンが導入され、その後劇的に死亡率が下がることになる。

これを人口1,000人当たりになおすと最高値が2.57ということになり、スペイン風邪の流行のピークよりは少ないが、新型コロナウイルスによるヨーロッパでの死亡率の数倍になることは間違いない。また、産業別の死亡要因(産業別のため就業者のみが対象となる)で見て、工業・商業では1920年の時点でスペイン風邪による肺炎・気管支炎に続く第2位の死因となっている(中原俊隆他「わが国の産業別死亡格差に関する戦前戦後にわたる長期的観察」『民族衛生』50(3), 141-155, 1984.)

感染症による「死」が身近な社会

すなわち、スペイン風邪は確かに日本社会に大きなインパクトを与えたが、スペイン風邪「のみ」が日本社会にインパクトを与えたわけではない。戦前の日本というものは、スペイン風邪のみならず、結核を含む様々な感染症に日常的にさらされており、その意味で感染症による死がより身近な社会だったということになる。

この意味において、スペイン風邪後の社会のみならず、戦前の日本社会というのは「コロナ後」の社会に近い。新型コロナウイルスが社会にもたらした大きな衝撃の1つは、我々が日常的に働く中でこれまで直面してこなかった(あるいは直面していないと思っていた)「死」というものが実は身近にあることを示したことである。

普通に働いているタクシーやバスの運転手、あるいはナイトクラブやレストランの従業員、あるいはオフィスワーカーでさえも、働く中で新型コロナウイルスに感染し、あるいは感染させてしまう。その結果、一部の人は死に至る。これまで、特に日本社会ではあまり意識されてこなかった、普通に働いているうちに死に至るという恐怖を新型コロナウイルスは如実に示した。

そして、このような恐怖は戦前の日本社会においては常に存在するものであった。つまり、「コロナ後」の社会の1つの特徴を、「死」というものの存在を日常の中に感じるようになった社会、と捉えるならば、戦前の日本社会はこのような特徴がより強く存在した社会ということになる。

2 「死」と企業経営

このような、労働者にとって「死」が身近にある世界において、企業の経営というのはどのようなものになるのだろうか。とりわけ、この感染症のような「死」の可能性に対して、企業はどのような対応をとるのだろうか。

ここで一旦歴史を離れて、まず少し論理的な整理をしておくことにしよう。

「死」が身近な社会において予想される経営の方向性

死が身近な社会、というのは、少し言い方を変えてみれば、いわゆる人的資本(ここでは、熟練などによって得られる知識やノウハウなどから、人間関係のネットワークのようなものまでも含む広い意味で使っている)が損なわれやすいものであることを意味する。ただし、死亡率や健康状態は対策により改善できるため、この人的資本が損なわれる程度そのものを減らすことができることになる。

話を単純にするため、ここでは人的資本の蓄積について、主として経験によって蓄積されるものを考えることにしよう。そうすると、人的資本を獲得するためには生活・衛生環境の改善や賃金の上昇によって死亡率を抑え、また定着率を高め、あるいは他の企業からの移動を促すことが必要となる。

ゆえに、これに対する1つの方法は、生活・衛生環境の改善に投資をすることで、人的資本の蓄積を促すことである。

しかし、一方で感染症により人々が亡くなりやすいのであれば、そのような投資をしてもソロバンに合わないと考える経営者もいるかもしれない。そのような経営者は、法によって要求されるのでなければ、積極的に生活・衛生環境の改善に投資をしようとはしないだろう。このような場合には、例えば熟練労働者だけには環境改善を行うが、それ以外の労働者はいわば「使い捨てる」形になる。

なお、(例えばそれこそ感染症により)労働者の数が少なくなり、労働市場がひっ迫してくると、賃金が高くなるか、あるいは生活・衛生環境の改善のような形で労働者を確保する必要が出てくる。これは結果として生活・衛生環境の改善につながるが、一方で労働者を多く雇用しなくても済むように労働節約型の投資が行われるかもしれない。

逆に労働者の数が多ければ、労働者を使い捨てることが可能になり、生活環境への投資等は行われないことになる。

以上をまとめると、いささかラフな想定だが、「死」が身近な社会において予想される経営の方向性は2つである。

A 一般の労働者も含む広い範囲に生活・衛生環境の改善を行い、その結果として人的資本の蓄積に結びつける。場合によっては、労働節約型の投資が並行する可能性がある。
B 一般の労働者については生活・衛生環境の改善なども行わない。ただし、この場合でも例えば熟練工や一部の事務労働者については生活・衛生環境等の改善のための投資を行う可能性がある。

端的に言えば、は生活環境や衛生環境に積極的な投資をし、また状況に応じて物的資本にも投資するという方向性であり、は熟練労働者を除くほとんどの労働者を「使い捨て」、かつ物的資本にも投資しない、という方向性である。

注意してほしい点は、労働者が多い場合にに近づくが、この場合には安い労働力に依存できるため、物的資本を労働で代替することになり、結果として設備投資等は行われない、という点である。労働が安い分設備投資に回るのかというと、論理的にはむしろ逆で、賃金が安い分だけ労働を利用し、設備投資をしないことになる。

戦前期紡績業にみる経営の実態

以上はざっくりと経営の方向性を想定したものだが、実際はどうだったのだろうか。 日本の紡績業を例にとってみれば、経営としてはからに移行していったように思われる。

  • 女工哀史

伝統的な紡績業のイメージは、のイメージ、というか「女工哀史」のイメージではなかったかと思われる。

例えば1903年に農商務省がまとめた『職工事情』の中の『綿絲紡績職工事情』を見ても、若年の女性労働者について、深夜労働を含む長時間労働、必ずしも広くはない寄宿舎(占有空間は1人当たり1畳、つまり10畳の部屋に10人が住むのが普通であるとされる)に大人数で生活するといった事情に加え、疾病について女工の多くが胃腸炎や気管支炎を起こしていること、死亡理由の1位が結核であること、死ぬ前に結核で故郷に帰らされる女工も多かった(これが故郷に結核を持ち帰る原因にもなった。岩崎前掲論文参照)ことなどが指摘されている。

しかし、このような経営には1900年前後からすでにいくつかの問題があらわれていた。1つの問題は女工の供給不足であり、これに加え女工の健康それ自体も問題となっていた(これはそれ自体が問題というだけでなく、農村における結核の拡大が政治的な課題となっていた)。

このようなことから、一方で新しい技術や管理方法を導入するとともに、他方で女工の生活環境や衛生状態を改善して女工の定着を図ろうとする動きが起こってきた。

  • 鐘淵紡績、倉敷紡績などの先駆的事例

その先駆的な例としては、武藤山治率いる鐘淵紡績と、大原孫三郎の倉敷紡績であろう。武藤山治のこのような方針は「温情主義経営」のような名前で知られるが、寄宿舎の改善や共済組合の設置のみならず、女工への教育機会の提供や社内報の発行、保育所の設置等多岐にわたっている。

このような動きは武藤山治が全社の支配人となった1900年以降、1900年代前半から継続的に行われている(例えば桑原哲也「日本における工場管理の近代化―鐘淵紡績会社における科学的管理法の導入, 1910年代―」『国民経済雑誌』172(6), pp.33-62, 1995、下川進「明治・大正期の日本紡績企業による労働者の生活過程管理」『日本経営学会誌』25, 28-38, 2010.)。

一方で、大原孫三郎率いる倉敷紡績もまた、女工のための寄宿舎を小規模の家族的な寄宿舎に変え(1908年から)、また女工への教育機会を提供する等、やはり女工の生活・衛生環境を改善しようとしていた。武藤山治と異なりオーナー経営者であった大原孫三郎はより長期的な視点に立った経営を行ったと評価されており、武藤山治とは異なった思想を持っていたことも指摘されている(兼田麗子『福祉実践にかけた先駆者たち―留岡幸助と大原孫三郎―』藤原書店,2003.)が、やはりこのような行動が会社の利益と一致するものであると考えていた。

以上のようなの方向性に向かう流れ、すなわち女工の職場環境を改善し、定着を図ることで生産性の向上を図る流れは、第一次世界大戦後以降広まってきた。この結果、改正工場法の施行により1929年に女工の深夜労働が禁止される時期には、女工の環境もかなり改善されていた(谷敷正光「「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇―工場内学校との関連で―」『駒沢大学経済学論集』35(3), 1-34, 2003)。

もちろん、女工の生活環境にはなお問題が残っていただろうし、後に戦時体制に移行する時期に結核が増加したことを考えれば、工場における衛生の問題はなお大きなものだったと思われる。しかし、「死」が身近にある世界において、労働者をいわば使い捨てる経営から、労働者の環境を改善し、「死」の可能性を引き下げていくことで、人的資本の蓄積を促し、それを利益につなげていく流れが拡がっていったことは改めて記憶されるべきだろう。

3 「コロナ後」の経営の方向性

以上を踏まえて、改めて歴史的な検討が「コロナ後」の経営にどのような示唆を与えるかを考えてみよう。

まず、前提条件を確認しておこう。まず、とりわけ日本において今回の新型コロナウイルスの影響により、例えば死者が増加して労働者が大きく減ることはないだろう。むしろ、失職者の増大により労働供給そのものは増えるかもしれない。

しかし、一方で対人接触を伴う職種については就業希望者が減少する可能性があり、景気回復につれて労働需給がひっ迫する可能性がある。このような問題はもちろん医療従事者(医師・看護師・検査技師等)で顕著になるだろうが、それだけでなく、営業職や販売スタッフ、レストラン等における接客スタッフ(ここには、いわゆる水商売等も含む)についても就業希望者が減少する可能性がある。新型コロナウイルスの影響で職を失った人が集まることで一時的には就業希望者が増えるかもしれないが、景気回復とともに他の職種が選べるようになれば感染を恐れて就業希望者が減少するかもしれない。

そうした場合、このような職種に就業を希望する労働者はより希少な、貴重な存在になる。上記の戦前期における紡績業の経験は、広く労働者の生活・衛生環境に配慮し、定着率を高めることで、生産性の向上を図るというのはそれなりに合理的であるということを示唆していた。そうであるとすれば、このような販売や接客を主とする産業においても、戦前の紡績業と同様に、労働者の生活・衛生環境の改善に配慮することで労働者の健康を守り、またそれによってスタッフの離職を抑え、ノウハウの蓄積を行っていくという方向性が理に適うかもしれない。

労働環境を改善するというのは、何も難しいことを言っているわけではない。例えば、かかりつけ医との連携を高めて、また上司の意識を変えて病気になった時に病院にかかれるようにする(倉敷紡績のように病院を作るというわけではないにせよ)、休みを取りやすくする、借上げの住まいや寮を提供して住環境を改善する、けがや病気で休む時に手当を支払う、といったようなものを想定してもらうとよい。特別な対応ではなく、ある意味で当たり前のことである。

しかし、人手を確保しやすい産業であれば、企業によってはこのような配慮が十分でなかったのかもしれない。このコロナ禍を機会として改めて労働者の生活・衛生環境に配慮するという当たり前のことができているかを確認するのがよいように思われる。

第2回はこちら

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